座興 3

酒が入るとつい議論になってしまう。

「君は相変わらず古いものばかり聴いているようだね。なぜ同時代の人々にもっと目を向けないのかね?」

「僕の好きな演奏家がたまたま昔の人ばかりだった、それだけです。」

「しかし同じ時代を生きる優れたピアニストたちを生で聴く、これは今を生きる我々にしかできないことだよ。君はみすみす宝を逃すことになるかもしれんのだぞ。君は人にももっと昔の演奏家を聴くよう勧めているらしいが、君みたいな人間ばかりになったら、君の愛する音楽を奏でる現役演奏家の活動の場がなくなりはしないかね。そんなこと君だって望まないだろう。」

「現代よりも遥かに多くの宝が過去にはあります。それら全てを聴くのに人の一生ではとても足りません。そのためなら僕は現代の英雄を聴く楽しみを喜んで放棄します。
現役演奏家が活躍する場はなくなりませんよ。生で音楽を聴くのを楽しみとする人はいつの時代も大勢いますし、彼らをアイドル的な感覚で追っかけるミーハーな連中も絶えません。こういう層は死んだ演奏家には取り込めませんからね。」

「しかしね、失ってから気づくことも多い。人の一生なんてその繰り返しみたいなものだ。そんな経験のひとつやふたつ、君にだってあるだろう。」

「ええ。フレイレを聴けなかったことは残念でした。クライバーンの偉大さに気づいたのも彼の死んだ後でした。」

「君がまだ知らないだけで、過去の巨匠に匹敵するような偉大な才能が現代にもいるかもしれない、自らの耳で確かめようとは思わないか?」

「僕はなにもクラシックを聴き始めると同時にヒストリカル録音に目覚めたわけではありません。子供の頃の、おそらく最初の4、5年は演奏家への拘りというものはもたず、ただ様々な曲を聴くことに熱心でした。つまり名曲のオムニバスCDや、特定の作曲家の名作集などを中心に聴いていたわけです。当然そういったアルバムには複数の奏者の演奏が含まれていますが、そのほとんどが現役演奏家のデジダル録音だったと思います。何故当時の自分に演奏者への拘りが生じなかったか。それはそれらの演奏が「同じ作品でも奏者によってまるで違った印象を生む」という事実を教えてくれなかったからだと思います。当時我が家には3人の現役ピアニストによる「英雄ポロネーズ」がありました。僕はただ曲そのものが聴きたくてCDを取り出すのであって、奏者の名前から選ぶことは遂に一度もありませんでした。どれでもよかったのです。そこにあるはずの「違い」を、僕は感知できなかったということです。」

「幼い子供にそれはまだ難しいことだろう。まさか今もその違いがわからないなどとは言わないはずだ。」

「ええ。しかし実に微妙な、些細な相違です。その奏者でなければならないという強い説得力に欠けます。子供心にもそのことは感じられたようです。後にヒストリカル録音をたくさん聴くようになって、昔馴染んだ(現代の)演奏に対する失望は大きくなりました。
僕のクラシック音楽の聴取体験は現役演奏家から始まっています。しかし自分に、物言わぬ譜面から生き生きとした音を紡ぎ出す演奏家の力、再創造芸術というものを教えてくれたのは彼らではなく、百年前の巨匠たちが遺した古い録音の数々でした。同時に作品そのもののもつ豊かな表現の可能性、つまり芸術的偉大さも再認識させてくれました。既に何度も聴き、よく知っている曲なのに、まるで初めて聴くような感覚を覚える、このような経験をあなたは現役演奏家にもったことはありますか?僕は、はっきりいって、ない。」

「ああ、君みたいな人たちはいつもこう言う、「現代の演奏家は皆同じに聞こえる」と。私に言わせれば、それは聴き手側の怠慢以外の何物でもないね。私は若手のコンサートには可能な限り足を運ぶようにしているが、いや若者だけじゃない、ベテランも含め、彼らが皆同じなんてことは絶対にないよ。必ず彼ら自身の主張、考えが、たとえ些細なものであっても聞き取れる。つまり自己中心的な改変ではなく、作曲家が書いたことを彼らなりに消化した結果をね。それがわからないというのは熱心に聴いていない証拠だ。彼らは常に真摯に作品と向き合い、自己よりも作曲家の書いた譜面を尊重する。彼ら自身の優れていることよりも、不滅の傑作が如何に素晴らしいかということを、真剣に聴衆に伝えようとしている。」

「もちろん現代の若手は皆真剣ですよ。真面目過ぎるほどだ。コンクールの演奏なんか聴いていてもそれはイヤというほど伝わってくる。そして彼らはほとんど例外なく、自分が弾く作品に没入しているように「見え」ます。ただ、目を閉じて演奏を聴いていると、その感覚は不思議なことに半減、或いは消失しますが、、、
自己よりも譜面を尊重する、立派なことです。でもそれなら、あなた自身がその曲を弾く意味はなんですか?何故あなたが弾かなくてはならないんですか?あなた以外の誰かでもできるんじゃないですか?と、僕は若い人の演奏を聞きながらこんな風に思うこと、しばしばです。
「細部まで聞き込めば彼らはちゃんと自身の主張を投影している」と仰いますが、生きた人間が弾くのですから、全く同じ演奏になんてなり得ないのは当然です。ただ、その「違い」というのは、耳をそばだて、全神経を集中させてようやくわかるようなものでいいのでしょうか?
それに、彼らは一様に、自己を犠牲にして作曲家に仕えているはずなのに、「主張、違いが聞こえる」のは何故でしょう?
あるひとつの権威ある楽譜を皆が使い、自己を滅し譜面に忠実な演奏を目指したとしたら、個人差はあれど、限りなく同じような演奏が世界中にあふれることは間違いないですよね。おそらく彼らの演奏から聞こえてくる「主張」「違い」というのは、その個人差のことだと思われます。あなた自身も「楽譜に忠実」な現代の価値観を共有していると見せかけて、その実、奏者個々の違いをもっと楽しみたいと欲しているのではないですか?
100年前の演奏家による「子犬のワルツ」、「英雄ポロネーズ」、「黒鍵のエチュード」、まあ何でもいいですが聴いてみてください。冒頭の数小節だけとっても、一つとして同じように弾いているものはありませんから。全身を耳にする必要もありません。こちらが意識しなくとも、向こうの方からやってきます。「個人差」というにはあまりにも巨大な何かが。真に偉大な個性とはそういうものであるべきだと思います。」

「あまり馬鹿にされちゃ困るな、私だってヒストリカル録音にまったく無知なわけではないよ。コルトー、ルービンシュタイン、ホロヴィッツ、パハマンなんてのもいたな、聴いたことはあるし彼らが非常に個性的だというのもわかる。だが私にとってこういった演奏は時として醜悪だ。曲を自分勝手に扱い、本来の姿を歪めているように思える。現代の優れた演奏家は決してそこを履き違えたりはしない。その演奏で常に前面にいるのは奏者ではなく作曲家その人だ。自らが求めることよりも、作曲家が求めたことに自身の才能の全てを注ぎ込む。」

「歪めているというのは音符ですか?リズムですか?テンポですか?それらは本当に作品の姿を醜悪にしていますか?適切な表現とは、作品の性格そのものに沿ったものであるかどうかで決まります。
コルトーの弾くノクターンは、ショパン特有の「ピアノによるベル・カント」と曲の夢想的な雰囲気を、ルービンシュタインのポロネーズは、気高く悲壮な精神を、フリードマンのマズルカは、脈打つリズムと全編を貫く望郷の念をぶち壊しているでしょうか。むしろそれらを強調する結果となってはいませんか。僕が思うに彼らがやっていることはみな、この表現上の「強調」に過ぎません。端的に言えば、短い音はより短く、長い音はより長く、遅くすべきところはより遅く、速めるところはより速く、クライマックスはより輝かしく。常に最高レベルの感動をもって弾き、「中庸」など有り得ません。作品が求めるものを強調して聴かせることで、鮮やかなコントラストを生み出し、生き生きとした音楽を造り上げているのです。楽譜と違うことをしていても、本質的な「違反」は犯していません。性格が損なわれていないからです。彼らもまた、書かれたことの表現に自身の才能の全てを注ぎ込んでいるという事実を見過ごしてはいけません。どこまでやるか、或いはやれるか、そこに「個性」が表れます。彼らが作品を弾くとき、前面に出るのは作者でも奏者自身でもありません。両者の関係は見事に対等なのです。演奏芸術における理想的な関係だと思われませんか?彼らは決して作曲家の奴隷ではありません。同じ「創造者の眼」で、曲を再度、誕生させます。奏者の口から、奏者の声で、作者の言葉が語られるのです。そしてこのような真の名人たちはいつも、対等な関係を作り上げることのできぬ凡庸な人々から「やりすぎ」「自分勝手」「改竄」などという的外れな批判を食らうこととなります。
僕はイグナツ・フリードマンのショパンを何度も聴くうちに、このことを確信するに至りました。一部の人間からは、奇をてらった、大げさな、とも評される彼の演奏は、おそらく彼以外の誰も感知し得なかった曲の底にある精神を適切に、最大限のコントラストを用いて表現した、最高峰の音楽芸術のひとつです。これは彼が知的に楽譜を読み込むのと同じくらい、「感じる」ことを怠らなかった結果だと思われます。また、多くの人は、古典の名作のほとんどに、聴衆を喜ばせるための名人芸的な性格が潜んでいることを忘れています。深刻で真面目なだけの音楽などありません。
「作品本来の姿」とは一体なんでしょうか。書かれた音を寸分の狂いもないテンポの上に100%正確に鳴らし、常に変わらぬ案配のクレッシェンド、ディミヌエンド、リタルダンド、ピアニシモ、フォルテシモで演奏することなのでしょうか。それなら本当に人間が音楽を演奏する意味がなくなってしまいます。今時の高性能自動演奏ソフトに楽譜を打ち込んで演奏させればこと足りるでしょう。それとも全てを中庸な表現に収めることでしょうか。もし現代の演奏における「楽譜至上主義」の価値観がこういう意味であるとしたら、我々ヒストリカル・ファンではなく、現代人こそ現役演奏家の滅亡に一役買っているということに早く気付くべきです。
あなたのお好きな若手のSと、もう二人の若手F、Kの同じ曲の演奏を目隠しして交互に聞き、奏者を言い当てることはできますか?
Sの演奏そのものに他との違いをはっきりと認め、Sの演奏でしか得られないものがあるからこそ贔屓にしているはず、迷うことはありませんよね。
僕にはこの三人を聞き分ける自信はさっぱりありません。ということはつまり、その人の演奏でなきゃならないという必然性が見出せないんです。ところが、ローゼンタール、フリードマン、ルービンシュタイン、ホロヴィッツ、ミケランジェリの弾くショパンのマズルカは、それぞれ別物、強い個性を反映した演奏なので、どれが誰だか、最初の数小節を聴けばすぐにわかるでしょう。芸術って、こういうものなんじゃないんですか?正直、現役演奏家のファンを名乗る人には皆、これを試してみてほしい。本当に彼らは個々の演奏家の個性を聞き分け、好みの1人を見つけ出しているのでしょうか。だとしたら、なんて鋭敏な聴覚の持ち主なのでしょう。よくいるんですよね、「昔の演奏家を絶賛するのはいいけど、‘それに比べて今は、、’って言うのは止めて!」っていう人が。僕は逆に彼らに問いたい。あなた方は過去の名演奏をちゃんと聴いたことがあるのかと。それらを知った上でなお、現役ピアニストの‘演奏そのもの’に夢中になり得る何かがあるのかと。演奏家の経歴、ルックス、言動などを「見て」好きになっているだけではないですか?
他人の楽しみ方を否定する気持ちはさらさらありませんが、ただ相手は音楽家なのですから、その音楽をちゃんと「聴いて」判断してあげてほしいと願うまでです。」

互いに論点をずらしつつ(?)譲らない。
見方によればどちらも正しいし、どちらもあべこべである。

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