原典主義の君たちへ

1. 楽譜に書かれていることを忠実に再現することが簡単な事でないことは、重々承知している。しかしそれは、練習の段階で既に達成せられるべきことであり、本番で人に聴かせることではない。それがゴールであってはいけないのだ。
プロの演奏家、芸術家なら、作曲家の書いたことをすべて理解し、さらにそのうえで、自らがその作品について言わんとすることを投影しなければならない。それをせずに、本番で楽譜を忠実になぞっただけの演奏をして得意顔をしている人間は、宿題をきちんとやってきたことを報告する小学生と変わらない。ただ自分の努力の結果を見せびらかすことに甘んじて、その先に進もうとしないのは感心しない。そういう人間は音楽家ではなく、指示に従って正確に指を正しい鍵に置くことができる優秀な運動神経をもった指の体操選手だ。聴衆は君がどれだけ頑張ったのかが聞きたいのではなく、君自身がその作品について何が言いたいのかが聴きたいのだ。
近年こういった演奏者が増え続けていることからも、音楽芸術のスポーツ化は加速の一途を辿っている。再び音楽に芸術の魂を取り戻すためには何が必要か。それは演奏者自身の主張であり、強い個性を反映した主観的演奏である。


2. 私が到着するやいなや、先生は、先月届いたという読者からの手紙を広げ、声に出して読み始めた。曰わくー

「君は音楽誌上で多くのピアノ学習者の質問に答えているね。ショパンの葬送ソナタの第一楽章の最後、下降するバスの最後の変ロ音を書かれている通り弾くか、多くの録音がそうしているように1オクターヴ低く弾くべきか、という質問に対し、君は何とも専門家らしくない答えを書いてしまったようだ。曰わく、作曲家が実際に書き、聴いた音なのだから楽譜の指示に従うことを推奨する、と。ただそれだけの理由しかないのかね。手短に結論を急いだ結果がこれなのかね。そうではなく、音楽の自然な流れに沿って4度下降するのではなく、書かれたとおりあえて5度上昇すべきその音楽的理由を、効果の上で、4度下降するよりもそうした方が良いというその理由を、もし当時の楽器に最も低い変ロ音があったとしてもショパンが高い変ロ音を選んだはずだというその理由を、論理的に説明するのが専門家だろう。呆れたよ。
僕はここはバスの自然な流れに沿って1オクターヴ低くとるべきだと思っている。そうすることで、最後の3つの変ロ長調の和音がピアノのほぼ全音域にわたって鳴り響き、これ以上ない充実した終結感が得られるからね。それこそまさにこの勝利の凱歌に相応しい響きだ。もちろんこのソナタはこの後も続き、悲劇的な結末を迎えるが、ここでは一旦、死への勝利を高らかに宣言してもいいんだよ。ここのバスを上昇してしまったら腑抜けた調子になってしまう。この厳粛な終結に馬鹿げた軽々しさを演出してしまう。これでは高らかな勝利の宣言にならないじゃないか。それに君はこのバスの進行を一度歌ってみるといい。5度上昇すれば何ともおかしな感覚を味わうだろうから。音楽本来の流れに反しているということに自然と気がつくことだろう。
君みたいな人間がピアノを教えることで、嫌になるほど世の中に蔓延る自らの主張の欠片もない演奏マシーンを量産していることにはやく気づくべきだ。君の誇り高き仕事が、君が愛する音楽を芸術からスポーツへと変えていく悪行の一端を担っているということを自覚したまえ。
僕がここまでいう理由は、何も君が僕と違う意見だったからではないことはわかっているね。問題は君の考えのその根拠にあるのだ。専門家であるはずの君の、その安直な根拠に、僕は呆れて、怒りすら覚えているのだ」。

先生が返事を書くことは、おそらくないだろう。

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