座興

 だいぶ酒も回ってきたころ、老人は僕を真正面に据えながら、次のようなことを一気に捲し立てた。

「最近の音楽大学ピアノ科学生、はたまたピアノ講師にいたるまでもが、コルトー、ホロヴィッツ、ミケランジェリ、フランソワ、パデレフスキ、フリードマン、バックハウスといった往年の巨匠たちの演奏はおろか、名前すら知らないという話を聞くに及び、そのあまりの無知に怒りに似た感情すら覚えて、唖然とするとともに、どうしても言いたいことなども湧いて出て、日頃の゙沈黙゙という戒律を破り、この場を借りて、ひとつ、下手な芸術論を、展開してみようと思ったのである。
 これらの偉大な巨匠たちの録音は何度もCDに復刻され、インターネット上でもほぼその全てを容易に聴くことができる。少しでもピアニストやピアノ演奏史にまつわる文献を読んだことがある者なら、必ずその名を目にするような大人物ばかりである。もちろん全てを知ることなどできやしないし、その必要もないのだが、本当にピアノを、音楽を愛している人間ならば、これらの巨匠たちの演奏に触れる機会は避けて通ってこられるはずのないものだ。まがりなりにも、ピアノを専門に勉強している者や、それを教えて飯を食ってるような人間ならば、当然知っているべきこと、経験しているべきことなのである。はたして彼らはピアノを、音楽を、真剣に愛しているのだろうか。怠惰で不勉強な自称音楽家たちを許すまじ!
 それと同時に、腑に落ちた部分があったのも事実だ。つまり、過去に達成された鍵盤上の偉業を知らぬが故に、現代の若い演奏家たちは、その驚くほどコントラストに欠けた一本調子のつまらない演奏に甘んじ、満足していられるというわけだ。現代の演奏家の最大の目的は、いかにミスタッチを少なくするかというところにあり、それに熱中するあまり、音色、アゴーギク、デュナーミクの変化にまで頭が回らない。当人たちはそれを否定するかもしれないが、演奏にそれが表れてしまっているのだから仕様がない。つまり、恐ろしいほど間違った音を鳴らさないと同時に、(顔の表情や身振りの大袈裟な変化とは裏腹に)最初から最後まで呆れるほど平坦な演奏に終始しているのだ。
 そしてミスタッチが少ないが故に、そのほんの数回聞こえただけの僅かな間違った音が、まるで真っ白な生地のうえにできた一点のシミのように、不快に目立つという結果に陥るのである。皮肉なことに、間違った音を鳴らさないようにすればするほど、たった一回のミスタッチをより際立たせることになるのだ。そのような演奏を聴いた人々の感想の中には、その記録的偉業とでもいうべき少ないミスタッチの音が、悪魔のようにこびりついて離れない(゙あのミスタッチさえなければ完璧だった”とか、゙素晴らしい、たった○回しかミスをしなかった”だとか)。
 黄金時代の巨匠たちの最大の目的は、なによりも、美しい音色、歌うようなフレージング、緩急、強弱における多彩なコントラストを生み出すことにあった。演奏前に‟どうかミスタッチをしませんように”などと念じることはなかった。それ故、彼らのミスタッチは、演奏者自身がそれを些細なこととして気にも留めていないために、聴いている側も彼らと同じように受け入れることができるのである。彼らのレコードを聴いたあと、開口一番、間違って鳴らした音の数に言及するような人は、音楽的感受性に著しく欠けた人と云わざるを得ないだろう。そこで展開される無限のコントラストに満ちた鍵盤上の奇跡は、信じられないほどの圧倒的な技巧と結びついて初めて達成されるものだからだ。過去の偉大なピアニストたちのテクニックは、現代の誰にも太刀打ちできないような高みに達している。鍵盤上の困難をすべて克服したという前提があるからこそ、作品に自分の考えを鮮やかに投影させることができるのである。とすれば、現代人の機械のようにつまらない演奏は、演奏における目的の違い、時代による価値観の違い以前に、その現代の彼らが誇っているはずの、正確無比な技巧が、実は欠如していることに起因する、という風にも考えられはしないだろうか。
 現代の音楽批評においても、過去の巨匠たちの独創性を賞賛している文章の中にすら、一種の決まり文句のような調子で、‟テクニックは現代の若手、ひいては音楽学生には及ばないが”といったような言葉を目にするたびに、呆れて、その浅はかな考え方にうんざりさせられる。特に偉大なアルフレッド・コルトーを論ずるときには、必ずといっていいほど技術の欠陥を指摘せねばならないことになっているようだが(最近ではあのホロヴィッツに対してもテクニックは現代人のほうが優れているとかいう暴言が吐かれているようだ)、それを目にするたび、では一体、現代に生きる誰が、コルトーやホロヴィッツに勝るテクニックをもったスーパーヴィルトゥオーゾで、どこの音楽学校に彼ら以上のテクニックをもった天才少年がいるというのだ、連れてこい!と怒鳴り散らしたい気持ちになる。彼らはミスタッチを数えてテクニックが優れているかどうかを判断し、ピアノ演奏芸術におけるありとあらゆる技巧を、作品の音楽的効果を高めるため適切に、効果的に用いるという本当のテクニックに関しては耳を塞いでいるのだ。そもそも本当のテクニックとはどういうことを指すのかをまるで理解していない。理解していれば、‟コルトーのテクニックレベルは現代の演奏家のそれには到底及ばない”などとは口が裂けても言えないはずだ。晩年の録音でさえそうである。
 何故現代のピアノ界は、このような現状に陥ってしまったのだろうか。
19世紀後半から20世紀前半にかけ、行き着くところまできたかのようにみえた主観的ロマン主義の果てに、新しい道を模索した演奏家たちは、学識を楯にした客観的楽譜至上主義を掲げ、見事その時代に際立った個性を確立し、後の音楽界の方向を決定づけることに成功した。私情を排し、作曲家の前に跪き、楽譜に書かれたことに綿密に従うことが最上の美徳とされ、それによって、それまで、曖昧模糊とした形の見えない音によって、人間の感情や思想を表現し伝達する術であった音楽に、目に見える善し悪しの判断基準が確立されたのである。つまり良い演奏を見極めるのに‶言葉では言い表せない心に訴えかけるもの”に拠る必要がなくなり、演奏を楽譜に照らし合わせ、厳格に指示に従っているかどうかを確かめることで容易に判断できるようになったのだ。ほどなくして、世界中に国際コンクールなるものが出現し始める。演奏家として身を立てるための最短の近道は、コンクールに優勝することとなり、若者たちは、不特定多数の聴衆ではなく、コンクールの審査員に高く評価される演奏を目指して、幼少期から毎日コツコツ練習に励むようになった。教師たちは生徒にいかなるやりすぎをも禁じ、大胆で挑戦的な態度で楽譜と向き合うことを厳しく戒めた。子供の頃の訓練の習慣からは、なかなか容易には抜け出せないもので、プロとしてステージに上がるようになってからも、先生の前でお行儀よく、楽譜の音譜ひとつひとつを注意深く追っているようなレベルに甘んじている演奏家のなんと多いことよ!つまりその作品について自身の言わんとすることがなにも聞こえてこないのだ。これでは、彼らがその作品を弾く意義がないではないか。しかし、これは彼ら自身の責任以上に、彼らの受けた教育そのものに問題があるといえるだろう。
 審査員の音楽的嗜好はそれぞれであるから、明確に点数を稼ぐための最良の方法は、やはり楽譜に書かれたことに忠実であることとなる。強い個性は賞賛と同じくらい批判も生む。このような個性をもつ人間は、たとえそれが素晴らしく偉大なものであろうと、複数の審査員が採点するコンクールでは良い結果は得られないだろう。楽譜に従順で過不足のない演奏をした者が、最も高い評価を勝ち取ることになるのだ。こうして、個性を押し殺した量産型高品質演奏マシーンを世に送り出すシステムが完成したのである。現代の音楽コンクール業界は、真に才気あふれる人間が世に出るチャンスを抹殺している。
 黄金時代のモダニスト、ヨーゼフ・ホフマンは、たとえ10人の演奏家が、同じ作品を同じように客観性をもって研究したとしても、一人一人がほかの9人とはまったく違ったふうに弾くだろうから、独創性が失われる心配はない、というような意味の言葉を残しているが、これはまったくその通りであり、人によって強弱の幅、緩急のタイミングや加減、テンポの感覚は違うので、同じ作品の同じ版を用いたとしても、まったく同じ演奏になることなど有り得ないのであるが、このような細部の違いこそあれど、それらが、みな似たり寄ったりに聞こえてしまうのは必然ではないだろうか。個性とは(独創性とは)じっくり注視しないと見極められないような曖昧なものではなく、誰にとってもはっきりとわかる明確で強いものであるべきである。
 そして現代に活躍するピアニストたちの演奏のほとんどが、悲しいことに同じように聞こえてしまうのだ。つまり、ブラインドで聴いても、これは誰々だと確信をもっていえるような、強烈な個性を反映した演奏を聴いた試しがないのである。知識偏重の楽譜至上主義が招いた結果は何であったか。演奏の平均化、皆一様に高水準だが、頭ひとつ抜けた存在を抹消したのだ。本来、芸術において最も価値のある部分は、この突出したところにあったはずなのに。
 価値観や概念を一変しなければならないのではないか。20世紀始めからおこった音楽芸術における知識偏重の学術主義がもたらしたもう一つの罪は、クラシック音楽市場の縮小である。クラシック音楽は限られた一部の専門家や愛好家のためのものとなり、学識ぶった連中によって、コンサートは物音ひとつたててはならない神聖な場と化し、一般大衆は徐々に、クラシックをお高くとまった小難しいものとして敬遠し始め、もっとわかりやすいポップスへと憩いの場を求めるようになった。19世紀までは音楽家たちは大衆のヒーローであり、人々は彼らの新作を聴きに、こぞってコンサートに詰めかけたものだ。音楽は世界共通の言語であり、国や世代、性別を越えて全世界の人々を慰める至高の芸術であった。現在この役を担っているのはポップミュージシャンたちであり、彼らはやはりほかの人間との違いを示すこと、つまり音楽そのものというよりも、言動やパフォーマンスによって人々に崇められ愛されている。
 一方我らが現代のクラシック音楽家たちはどうかというと、作曲家は世界共通の言語どころか、本人にすら意味が分かっているのか疑わしくなるような奇妙な音を、小ぢんまりとしたホールの空間に漂わせ、そこに集まった少数の物知り顔した自称音楽通たちのささやかな拍手に微笑をもって応えている。もはや、嘗てのストラヴィンスキー「春の祭典」や、プロコフィエフの「ト短調ピアノ協奏曲」初演時のような、ヤジや口笛、暴動など起きる気配もない。
 凄まじい拒否反応が起こるのは、世間がまだクラシック音楽に関心があった証だ。今は、その関心すらもたれず、哀れな新作はただその密やかな喝采に包まれながら、二度と日の目を浴びることなく、静かに、そっと、作曲家の仕事机の引き出しのなかで長い眠りにつく。
 演奏家たちはというと、高品質演奏マシーンとしての本領を遺憾なく発揮し、ベートーヴェンの三大ソナタやチャイコフスキーのコンチェルトなどの人気曲を携え、世界中を飛び回り、そのどこでも、あっぱれなほどミスタッチの少ない演奏を披露し、激しく変化する表情や身振りとはどうみても釣り合わない一本調子で最初から最後まで貫き通し(mpからmfの間を行き来し)、そうして、偉大な作曲家の遺した神聖な福音を聴く場に居合わせたことに感極まった、貴重な絶滅危惧種である愛すべき聴衆からの、文字通り万雷の拍手のなか、深々と、お辞儀をするのである。まさに音楽芸術の黄昏時である。
 我々は道を誤ったのだ。音楽を、偉大な芸術を復活させるためには、作曲家の精神を尊重するのが大切ならば、彼らが音楽を書いていた時代の精神に立ち戻ろうではないか。音楽と音楽家が、人々に尊敬され、偉大であった頃の価値観を取り戻し、もう一度やり直そうではないか。フランツ・リストが“そう楽譜通りに受け取る必要はないよ”と漏らしたあの時代に。
 すべての音楽学校では、ピアノ文献の研究と、昔の巨匠たちの遺した偉大なレコードを鑑賞する授業を必修科目とするべきだ。そうすれば、学生たちは、その素晴らしい鍵盤上の奇跡に到達すべく、これまでとは違った意味で、テクニックに磨きをかける努力に邁進し、“再創造芸術”に目覚めることだろう。
 コンクールに関しては散々悪口を言ったが、若い才能を手っ取り早く世界へ羽ばたかせるにはいい制度である。これは事実だ。要は、なにをもって、良い演奏かどうかを判断するのか、その基準が問題なのである。そしてその基準というものは(楽譜の遵守を別にすれば)、個人の音楽的嗜好に拠るところが大なのである。良い演奏家とは不特定多数の聴衆を感動させる力をもった人のことである。限られた専門家によって審査されるのではなく、その場にいる一般の聴衆すべてに投票させて、優れた演奏者を決めるシステムのコンクールがあるといいと思う。もっとも支持を集めた者は、オーケストラとの共演と、一晩のリサイタルの権利を獲得する。(この演奏会には音楽業界の有力者なども招待する。)本当に実力のある者ならその後の道は自ずと開けるだろう(ただし、投票する聴衆の中に、いかにして演奏者の身内、関係者を排除するかという問題がでてくるが)。
 願わくは、自由で主観的な演奏が、たったそれだけの理由で、世の中から排斥されることなく、愛され、議論されるような音楽界にならんことを!偉大なピアニストたちが遺した器楽演奏におけるひとつの究極の到達点に、多くの若者たちが耳を傾けるようにならんことを!」
 

 一通り喋り散らすと、老人はやおら立ち上がり、僕の半分残ったビールを一気に飲み干し、二人分の酒代を机の上に乱暴に叩きつけ、千鳥足で店を出ていった。

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