NSNO番外編 自分史note
BFの自己紹介ならぬ、自分史noteに挑戦するNSNO番外編。
情報発信(というか自己満足表現)を続けて早数年、そして2024年よりエバートンジャパン代表に就任したこともあり、BFという存在が多くの方の目に触れる機会が増えてきた。
これまでもTwitter/X、スペースやラジオ、質問箱、そしてnote『NSNO』は気づけばVol.30に到達し、これらを通じて私自身のエピソードや略歴をいくらかお話する機会があった。おそらく今回の試みでは過去の記事と重複する部分もあるが、より長いスパンの中で自分とエバートンを紐づけていく。
改めてBFという極東のエバトニアン、ひとりの人間がどのような人物なのかを知ってもらうための作業である。誰が他人の半生に興味があるんだ、と言われればそこまだが、知ってもらうことは大切なのではないか?では、そのための努力をしてみようじゃないか。
これまで関わってくださった全ての方、そしてこれから触れ合うかもしれないフットボールファンに届くことを期待し、何より自分という存在について今一度、考えを深める機会にしたい。
◇プロフィール
アカウント名:BF(びーえふ)
性別:男性
年齢:1990年生まれ(ギリ平成)の34歳おじさん
拠点:愛知県在住
アカウント名の由来は、学生時代に部活動(サッカー部)の友人とヘディングの練習をしていた際、「お前、顔デカいな!ビッグ・フェイス!」と呼ばれたことをきっかけにいじられるようになり、この出来事に起因して「Big Face」→BFという略称にてハンドルネームを用いるようになった。
生まれてから高校卒業までは実家の三重県に在住し、大学進学とともに愛知県へ引っ越し。一人暮らしをスタートさせ、就職後は東海地方や関西地方などを転々と移り住み結婚を機に転職。現在は恵まれたことに子を授かり、妻と家族3人で愛知県に住まいを構え生活している。
職業は大まかにお伝えすると広告業界で働いている。ふつうのサラリーマン。
好きなサッカー(クラブ)はエバートン。
漫画は小学生の頃から買い始めたワンピースだけは未だに単行本を購入し続け、音楽はブラック・ミュージック、とくにソウルやファンクが好き。その香りがある日本人アーティストも好み。
ラジオを毎日聴く。読書は年に数冊程度。
一時期、映画を狂ったように観ていたが最近はご無沙汰になってしまった。サブスクのディズニー・プラスで、娘とピクサー作品などの新作映画を観るのがささやかな楽しみ。
若い頃は、キャンプやアウトドア、スキー・スノーボードなどを嗜むも、三十路に突入して以降、ほとんど運動をしていない状況。
基本的に、家族と過ごす時間以外の余暇はエバートンFCのことを考えて生きる、偏ったライフサイクルが続いている。今年、新たにチャレンジしたいのは絵・イラストを描くこと。妻が趣味でカメラを始めようと意気込んでおり、写真を撮ることにも便乗しようと思っている。
それでは念の為、本稿が長くなることを先にお詫びして、自分の人生を振り返る。
◇幼少期
サッカーとの出会いは4.5歳頃。90年代…Jリーグ発足から間もないこともあって、周囲の男の子たちにとって人気スポーツの筆頭はサッカーだった。当時、Jリーグのチームキャラクター(マスコット)が施されたサッカーシューズが流行っており、私は名古屋グランパスのグランパスくんが描かれた靴を履いて登園。その頃から周りの影響を受け、ボールを蹴っていた朧げな記憶がある。
小学校へ通い始めると幼稚園から付き合いのあるお友達の誘いを受け、地元のサッカークラブに入団。6年間サッカー少年としての道を歩むことに。途中で何度か地域のソフトボールチームに入ってみたり、絵を描くことに興味を持ったりするものの、この頃の「将来の夢はなんですか?」という問いには、迷わず「サッカー選手!」と答えていた。当時のアイドルは"ピクシー"こと、ドラガン・ストイコビッチ。父に何度か瑞穂陸上競技場へ連れて行ってもらった。ピクシーがピッチの上でリフティングしながらゴールへ迫る光景や、相手DFを嘲笑うトリックは未だ脳裏に焼きついている。
中学に進学するタイミングで、両親はJリーグのユースを始めとする近辺のクラブチームへ通わせようかと考えていたそうだ。
理由は、進学先の中学校は田舎の公立中学、サッカー部は弱小、ヤンキーや不良が多いとの噂が多く懸念していたとのこと。
ところが、県内でも有名な強豪校から顧問の先生が転任してくる…そんな話が伝わりそのまま公立中学校のサッカー部へ入ることに。
◇中学時代
サッカーに没頭した3年間だった。
一時、人生で初めて彼女ができるという経験をするが、サッカー馬鹿小僧とあってボールを蹴ることしか考えておらず、平日も土日も練習や試合に明け暮れていた。そのおかげで、いつの間にかその女の子には別の彼氏ができていたというエピソードがある。自業自得、その日から私のアイドルは長澤まさみ…じゃなくてデイビット・ベッカムに。ある時はアンドリー・シェフチェンコに憧れ、またある時は加藤ローサ…じゃなくてカフーにハートを射抜かれグラウンドを走り続けた。初めて購入したユニフォームはACミラン(#7 シェフチェンコ)!
小学生だった2002年の日韓W杯が開催された頃はリアルなサッカーを見るよりも、ウイイレやポケモン、ドラクエをプレイするほうが好きな少年だったが、04-05チャンピオンズ・リーグ決勝やEURO2004で大きく風向きが変わった。
それまでPlayStationで動かす選手しかまともに観たことがなかった中で、リアルがバーチャルを超え、ゲームよりも遥かに荘厳な息吹や、高鳴る鼓動に引き込まれた。魅惑と衝撃が走る、テレビゲームでは再現できないゴールの瞬間。ネットを揺らすと同時に湧く観客の一体感。この頃から私の関心は海外サッカーへ。ワールドサッカー・ダイジェストが愛読書となった。エバートンと初めて出会ったのはこの頃だ。
さて、話を部活動に戻そう。
彼女がいなくなったことで、私はさらにサッカーへ真っしぐら。顧問である監督は率いたチームを必ず強くすると有名だった通りのとても厳しい人だった。とにかく、"オフ・ザ・ピッチ"=ピッチの外における規則が厳しく、私生活に重きを置くような哲学を植え付けた。フェアプレー、相手をリスペクトすること、ルールや校則を徹底すること、それらが守れない部員は実力関係なくトップチームから外された。ピッチの中では「諦める」ということを許さない。走らない選手は即座に怒号を浴びた。何より、姿勢を評価した。
引退をかけた最後の1年ではレギュラーとして県大会で優勝し、夢の高円宮杯に出場。また、サッカーではなく、フットサルでもサッカー部から選抜された2チームが地区予選に参加、私がエントリーしたチームは地区予選で敗退するも、もう一方が全国大会に出場。そんな素敵な指導者や仲間たちに巡り会うことができた。
無名の田舎中学が県内有数のクラブチームをなぎ倒していく、当時は浸透していなかった言葉、"ジャイアント・キリング"を体感した貴重な経験。窮鼠猫を噛む、アンダードッグ的なマインドがエバートンを推していくことになる礎となっていたかもしれない。
一方で、先に進めば進むほど、高みに近づくほど現実の険しさを思い知り、上には上がいるという世界の厳しさを痛感。
いくつかのJリーグ・ユースチームや名門校と対決し、歴然としたレベルの差を味わった。
当時、サッカーとは別の要素として大きかった、家族の決め事がある。
「小説や参考書など"本"であれば欲しい時にいつでも買っていいよ」というお小遣いのファイナンシャル・ルールを超越するスペシャル・ボーナスが存在した。ちょうどインターネットでAmazonが普及し始めた頃で、ポチポチと手軽にクリックひとつで興味の湧いた作品をオンラインで購入するという、今思えば何とも贅沢で粋な両親の計らいがあったのだ。
やがて通学時やオフの時間を活用し、読書に費やす時間が生まれる。芥川賞などの受賞作品、サスペンスやミステリー、青春モノ、ライトノベルなど色々と手を出したが、今でもバイブルと言えるほど、自分に影響を与えた小説があった。故・野沢尚著『龍時』というサッカー小説だ。
三部作に渡る『龍時』の最終巻では、アテネ・オリンピックにU-23日本代表として出場した主人公が王者ブラジルと対戦し、自らの限界と向き合う場面が訪れる。ここでは、
「我が魂よ、不死を求ることなかれ、ただ可能の限界を汲み尽くせ」
というフレーズが作中に生まれるのだが、私にとっての中学サッカーは、まさにこの言葉通りのものだった。自分が直向きに続けてきたサッカー。レギュラーを勝ち取り、地域選抜に選ばれたり、県内のタイトルを次々に獲得し、自信に満ち溢れた時間の先にあった大きな「挫折」。
舞台を駆け上がるほど、自分が出来ること、その限界にぶつかり、圧倒的な壁と敗北を味わった瞬間だった。
勝つことの喜びがある一方、エリートたちとの実力、格差、まざまざと思い知らされた経験は、私のベースを築いた核となるものだった。これは、先に述べた"ジャイアント・キリング"に通ずる、勝利の対となる敗北を知る大きな要素だったと思う。
◇高校時代
中学のサッカー部で出会った、恩師やチームメイト、様々な縁が大団円へと結びつき、ひとつの目標に向かって全員で突っ走ってきた。厳しい練習を乗り越えたご褒美だった。私は、クラスメイトが必死に受験勉強をする中、特待生でオファーを受けた私立高校への進学を決めた。サッカーへ打ち込むためだ。スポーツに力を入れる風土に惹かれ、迷わず選択した。
しかし、所謂"名門校"ではなかった。全国高校サッカー選手権へ出場するような常連校には劣るレベル。その世界に届かなかった選手が集まってくるような環境だったと思う。それでも仲間と切磋琢磨し、高校での3年間も見事にサッカーのみに明け暮れた、そんな青春模様一色だった。
ところが、蓋を開けてみればここでも挫折を味わった。高校3年間で公式戦の出場はゼロ。毎日朝5時に起き、自主的に朝練、授業が終われば暗くなるまでまで練習、練習が終わった後も、暗がりのもとで好んで居残り練習をする、平成のスポ根魂が丸出しな毎日。こんな日々を繰り返していると、当然ながら勉強はそっちのけ、サッカーのためだけに高校へ通っているようなものだった。
しかし、私はいつまでも下手くそだった。トップチームに昇格したと思えばBチームに後戻り、時にはCチームに落とされてヤケクソになった時期もある。肉離れや膝の怪我を負い、黙々と筋トレをしている間にライバルたちに追い抜かれ、学年が変わればまた何人もの特待生が入部し、エリートにポジションを奪われる。公式戦ではメガホン片手に応援する…。上手い奴こそ正義。唯一自慢できるのは、サッカーに対する姿勢だけが評価されて掴んだ、副キャプテンという肩書きのみだった。
サッカーに集中しすぎてほとんど勉強をしてこなかった私。テストの点数は落ちる一方、周囲が受験勉強をする中、私は次の進路について考えるようになる。
ここで、中学時代から細々と続けてきた「読書」が真っ先に思い浮かんだ。
運動部や体育会系にしては珍しいはずだ。毎年、夏休みの課題である読書感想文を書くことが好きな学生だった。3年生となった最後のコンクール、とうとう市長賞を授与され、その賞の大きさはイマイチ分からなかったものの、サッカーでは認めてもらえなかった、見つけられなかった何かを得た、そんな感覚が今でも胸に残っている。
大学へ進んで、もっとたくさん本を読みたい、そして『龍時』のようにサッカーを言語化するようなライターになりたい。いつか物語を書いてみたい。素直に「勉強をしたい」という目的が初めて生まれた瞬間。
そんな折、季節は巡り高校最後の冬がやってきた。
秋にはサッカー部を引退し、全国高校サッカー選手権本大会のテレビ放送が始まっていた。
私と同じ歳、その道のエリートたちが集まる舞台。この大会で脚光を浴びた怪物に同世代なら誰もが圧倒されただろう。
「大迫半端ないって~!もぉ~…アイツ半端ないって!!後ろ向きのボールめっちゃトラップするもん!!そんなんできひんやん普通…」
今やミーム化した名言が生まれる第87回大会。最多得点記録を叩き出した大迫勇也が大暴れした年である。
そして、私は理解した。
頑張ってきたのは決して私だけではなく、私以上に努力した人間、そして優れた才能を持つ選手が山ほどいること。名門校の観客席にはピッチに立てなかった部員たちが声を揃えて応援している。私が見た格差は、広い(狭い)世界で序の口であったということ。所詮、自分の努力など並のものであり、誰でも通りうる普通の話だったのだ。
この頃からだったと思う。小学生から始まったサッカー人生の12年間で、直向きに努力する素晴らしさを知ったつもりだったが、心のどこかで「頑張ったところで辿り着けない」「努力しても報われない」「自分には才能がない」そんな諦めに似た感覚が芽生え始めていた。
さて、その後の進路に話を移そう。
私立高校の利点。私はサッカー部の顧問に紹介してもらった大学への受験を決めた。受験とは言っても…指定校推薦というやつだ。そう、私は恥ずかしながら人生で一度も受験勉強をしたことがない。誰もが乗り越えてきた壁を横目に、何の苦労もせずにすり抜けてきたのだ。「私は頭が悪いバカです」と言っているのと同じようなもの。「進学先にはサッカー部もあるし、こっちから話しておくよ」という、恩師のコネクション頼り…。3年間ずーっとサッカーに対して真面目だったことだけが功を奏し、なんとか進むことができるギリギリラインの偏差値の大学に絞り、唯一得意だった論文を提出し、あとは足を運んで面接を受けるだけだった。そして希望する文学部へ…。
特待生だったことで、高校時代3年間の学費は免除、親への負担は少なかったかな?なんて当時は思っていたが、そんなことはない。数えきれないほどの遠征、その宿泊費、すぐに擦り減って買い換えるスパイク、季節ごとのウェア、チームジャージ、あらゆる出費があったと思う。母はどんなに朝が早くとも弁当を欠かさず作ってくれ、父は平日休みの仕事をしながらも予定を立てて何度も試合を見にきてくれた。
その上で、両親は奨学金なく全額を負担して大学へ進学・通学させてくれた。私はこんなに素晴らしい親になれるだろうか?今でもたまに自問自答する。好きなことを好きなだけ没頭させてくれて、行きたい大学へ後押ししてくれる…いざ一人暮らしを始めれば、時に段ボールいっぱいの仕送りを届けてくれ、実家へ帰ればご馳走を用意し、暖かくもてなしてくれる。本当に頭が上がらない。それは歳をとるごとに痛感している。好きなことを続ける難しさはあれど、その環境へ解き放ってくれた両親の存在は偉大だ。
結局、何も勝ち取れなかった高校生活だが、そんな自分には新たなアイドルが生まれていた。
元エバートン所属、現アーセナル監督のミケル・アルテタだ。
無骨なイングランド・フットボールで、ロングボールが飛び交うゲームの中、アルテタのプレイは光り輝いて見えた。当時のビッグ4に牙を剥くエバートン。プレミアリーグのエリートたちに立ち向かう第二勢力。まさに自分がいた環境で、儚く描いた理想を体現する戦士たちにみるみるうちに惹かれていった。
だが、アルテタはいつになってもスペイン代表に選ばれなかった。比べるのもおこがましいこと甚だしいが、そんなアルテタに親近感を覚え、自身を投影するようになった。エバートンにいればタイトルとは無縁、それでもアルテタはチームの核だった。私が理想とするような選手だった。
◇大学時代
入学直後の新入生歓迎期間は今でも鮮明に覚えている。真っ先に足を運んだサッカー部。
見学をさせてもらうと…覇気がない。チャラチャラしている。あまり上手くない。あ、これは自分の求める世界じゃない。そんな直感が働いた。結局、サッカー部への入部は諦め、早々に恩師を裏切る形になったが、代わりにフットサルサークルの見学に訪れた。
「あ、申し訳ないけど、ちょっとガチすぎるかな…うちは女の子も混ざってやるエンジョイ系なんだよね…」
私が入部希望と理由を伝えるとサークルのお兄さんにそう言われてしまった。ここも違った…そのサークルが悪いわけではない。私はやるならガチでやりたい人間だった。好きなことには真っ向から打ち込みたい、そんな性格なんだと自覚した。
結局、もうボールを蹴ることはないのかも…そんなことを考えながら校内を歩いていた時、聞き馴染みのない音楽が聞こえてきた。
満開に咲く桜並木の下、揺れるドラム、人と同じくらいの大きなウッドベース、キーボードと管楽器がしっとりと音楽を奏でている昼下がり。引き込まれるように前を通りかかると、大人びた綺麗なお姉さんたちが寄ってきた。
「ねえねえ、1年生?ちょっとだけ聴いていかない?ジュースとお菓子もあるし。ジャズ研なんだけど…良かったら楽器も触ってみる?」
淡い桜、ジャズ、綺麗な音色(お姉さん)たち、
これはサッカーとは違う…私の全く知らない世界だ…これが夢の大学生ライフというやつなのか!
……サッカーだけに染められていた私の青春時代を塗り替える、見知らぬ音楽"ジャズ"との出会い。自分はガチだとか言っておきながら邪念が凄い。
◇ジャズに没頭した4年間
音符が読めない、叩けば音が出せる、運動神経良し、その3つを理由にして担当楽器:ドラムを選択し、気づいたらジャズ・サークルに入っていた。
楽器を練習する時間は、黙々と自主練や居残り練習をしていた高校時代の自分ととてもリンクするものだった。テンポをキープする、ひたすら反復練習をする。身体の全身を使ってバンドの後方部隊としてフロント・アタッカーを支える。バンドのディフェンスラインだ。
このサークル活動の4年間で得たものは、人前に立ち自己を表現することの喜び、その素晴らしさ。ジャズという音楽を理解すること=ルーツや文化、歴史、性質、楽器の知識などなど、その魅力を知るために調べる、学ぶ、練習し勉強する面白さだった。
ジャズの世界には「インプロヴィゼーション」という概念がある。また「インタープレイ」という専門用語も存在する。平たく言えば、指定された楽曲・コード進行を元に、自由な演奏、即興性の高い音楽性の中で、演奏者同士が音でコミュニケートし、会話やリアクションを交わしながら、ひとつのテーマの中で音楽を作り上げていく。
私にとってはジャズとサッカーと近しいものがあった。パス交換(様子を見る、意見交換)、チャンスを作る(盛り上げる)、楔を打つ(変化をつける、合図を送る)、シュートを打つ(アドリブを繋ぐ、完結させる)。
やがて、サークルではキャラクターを認められたのか、幸運にも部長を経験し、ホテルやラウンジ、お祭りや地域音楽フェスでの営業活動、ライブハウスでの演奏といった多くの経験を重ねることができた。
しかし、一定のレベルへ到達すると打ち当たる壁があるのはサッカー同様。セミプロやプロの演奏に触れるたび世界の違いを痛感することになった。私は自分の満足するレベルへ到達すると、それ以上に上手くなろうとしなかった。高みを目指すような努力をせず、時に昼から酒を飲み、授業をサボり、バンド仲間たちと音楽を聴きながら、有り余る貴重な時間を実に怠惰に過ごしていった。それも今では良い思い出である。
◇学業
肝心の文学部での勉学はというと、マスコミ関連の講義を受けたり、哲学や英米文化の授業を選択したりと自分の興味関心に沿っていくうちに、すっかり文化系男子としてシフトチェンジしていった。
3年次、4年次には読書への意欲がピークに達し、日本文学を専攻。近代小説、現代小説を中心とする作品(課題図書)が毎週のように与えられ、その度にレポートを読書感想文のような形でまとめ、授業の時間で他の生徒とひたすら意見を交わすという、文学オタクが極まる時間を過ごしていた。
卒業論文は当時最も影響を受けた村上春樹を題材に、村上作品に度々登場する実在したジャズ・ミュージシャンやその楽曲を掘り下げ、ストーリーに与える意味や影響、共鳴について研究した。
この頃、教授から受けた言葉で印象的だったものがある。少なからず心のどこかでライターという仕事に憧れていたものの、就職活動では明確な目標を見つけられず、夢もなく、将来設計も持たない、見事に中途半端な大学生と化していた。そんな中、見かねた教授としては発破をかけた意図があったのかもしれない。
「記者とかライターになって記事を書く、って別にブログとか趣味でも良いんじゃないの?」
私は「そんなことないです!」
と答えるのが正解だったと今でも思う。
「確かに…そうですよね」
と腑に落ちたのが当時の私。
目標や野心、高みを目指すことに関心がなくなっていたのだと思う。
それと呼応するように大学生活を通じてサッカーとの距離は徐々に開き始め、唯一繋がりを残したのはエバートンだった(あとはワンピースもそうか…)。
毎節見られるような環境は今のように揃っていなかったが、当時週刊だったフットボリスタを購読し、可能な限りハイライトを見返し、見られないならグレーな視聴方法を探し、よく分からない海外サイトをサーフィンしていた。そして、iPhoneを初めて購入したと同時にTwitterを始めた。それまで出会う経験のなかったエバトニアンが日本には僅かでもいることを知った。
一方で、エバートンで何かを勝ち取れなかったアルテタは、ビル・ケンライトらの反対を押し切って直談判、補強に急ぐアーセン・ヴェンゲル率いるアーセナルへの移籍を決めた。
やがて、アルテタは二度に渡るFAカップ優勝を果たし、エバートンで成し遂げられなかったタイトルを手にした。私が何者にもなれず、限界を汲み尽くすことを忘れた頃、アルテタは度重なる怪我を乗り越え、プロキャリアを有終の美で終えた。
勝ち取れなかった時代から、アーセナルのレジェンドとして選手生命の幕を閉じた。私の最も惹かれたアイドルが自分から離れていった感覚が残った。
◇社会人
とにかく、ビジネススーツが着たくなかった、そして就職活動も早く終わらせたかった。何より、なりたい自分、なりたい職業、夢もなければそのための準備も怠ってきた。そんな張り合いのない人間になっていた。それでも、これまでの自分を作り上げたサッカー及びスポーツに対し、何か恩返しのようなものがしたい、それができる仕事なら自分に合うのではないか、やりがいを見つけられるのではないか、そう感じてスポーツ関連の仕事に就いた。
とても有意義な数年間を過ごしたと思う。周囲もスポーツ好きな人間が集まって、過去に触れてこなかったスポーツを体験したり、アクティブな社風や若いスタッフも多かったことで、充実した時間と1人ではチャレンジできなかったこともたくさん経験することができた。どちらかと言えば、自分がやりたい!と思ったことよりも、仲間や先輩に導かれ、広く浅く、スポーツの世界を享受することができた期間だった。
反対に、自分がやりたい!と没頭したのは映画や音楽鑑賞だった。社会人となり学生の頃よりも金銭的な余裕が増え、映画館へ通うこと、レコード屋へ訪れて好みのアーティストを探したりといった、趣味に没頭する機会も増えていった。
現在の妻とは28歳の時に結婚した。
大学生のころジャズサークルで知り合った後輩だ。
ところが結婚しても仕事の転勤・異動が絶えなかった。妻に負担をかけること、将来子どもを授かるようなことがあれば、どうなるのだろうか。より不安が芽生え、慣れ親しんだ土地へ戻り転職することを決意した。
そして現職に至るわけだが、転職早々に世界を巻き込むパンデミック、コロナ禍がやってきた。
奇しくも、ちょうど時を同じくして娘を授かった。
それはそれは大きな喜びだったが、コロナの影響で出産に立ち会えず、生まれてからも1か月近く娘に会うことができなかった。これは一生の悔いである。生まれたての娘を抱くことが出来なかったし、妻のそばで支えることが出来なかったもどかしさが募った。その反面、妻と娘が自宅に帰ってきてからはとてもポジティブに育児に関わることが出来たと感じている。
◇現在
ここまで、足早に私の過去、自分の過程を辿ってきたがなかなかの文字数が積み上がってしまった。お付き合いくださった方がいらっしゃるのであれば、心から感謝を申し上げたい。もはや私のファンではないだろうか、というのは冗談だけど、本当にありがとう。
今ではボールを蹴ることもなければ、ドラムを叩くこともなくなり、子を授かってからは映画館にも足を運ばなくなった。ライフステージ、環境の変化、歳を重ねてここに書ききれないほどの出来事があったが、先にも述べた通り、最終的に中学時代から途切れることなく繋がっているものがひとつだけ残っている。エバートンである。
不思議なことに、時が経つごとに愛着が増している。自分にはこれしかない、没頭できること、打ち込むことができるのはエバートンなのだ。
と言ってしまうと、妻や娘に嫌われてしまうので内緒にしておこう。もちろん、家族が1番だ(ハッキリと言っておくことは重要だ)。
エバートンへの熱量が仕事にも生かされれば、私はもっと稼げる夫になっていただろう。そこは誠に申し訳ない。だが、日常に活かされるものはきっとある(と、言い聞かせる)。
今の私には努力したいと思えるものがある。努力というと大袈裟で、少しばかりニュアンスが異なるかもしれない。没頭していたい、フリーキーでありたい。そして、自分が何かを試される時、岐路に立った時、あるいは些細な出来事に対しても、私のマインドにはいつもエバートンを抱えていたい。ひとつの判断や行動を、優しさや思いやりを、表現や訴えも心と身体にエバートンを宿すのだ。
正直、大それたことを毎日実践しているわけではない。SNSでは適当なことばかり呟いているし、親父ギャグっぽいセンスの無さも滲み出ているだろう。責任感や正義感だけが先走り、出過ぎた真似をしたことも一度や二度ではない。
それでも、エバートンジャパンという組織を代表するようになった。かつて、前代表に「オピニオン・リーダー」だと背中を押してもらったことは非常に大きな勇気になった。同時に、私を理解してくれる仲間が大勢いることも知った。この場を借りて、心から感謝を伝えたい。
◇これから
アルテタは今、アーセナルに再びプレミアリーグ優勝の結末をもたらすため、フットボール界の先頭に立っている。奇しくも、私が日頃お世話になっている方々がアルテタをフォーカスした翻訳本を手掛けてくださった。手元に届いた冊子からは、不思議な縁やこれまでの自己を振り返るような、特別な感情を抱いた。私も先陣を切る、その努力をしたい。
エバートンを追いかけ始めた中で、身の回りになかったものを作り上げよう。「あったらいいな…」を叶えていこう。それは、私が諦めてきた「満足して終わり」の世界ではない。私と同じようにエバートンに繋ぎ止められてきた日常を持つ人、今季から新たに追いかけ始め、ここから繋がっていく人、さまざまな境遇にある日本の誰かに、必要としている人に届けられる言葉を綴ろう。
『NSNO』はそんな想いで始めたブログである。
SNSでバズるようなものは必要ない。
読み手を想像し、書き手として焦点を定め、届くべき人に届いて欲しい。100人に届くより、心にエバートンを宿す10人に届けたいのだ。そして、それが今でなくともいい。10年後、20年後、たまたま誰がが見つけてくれて、何かを受け取ってくれたなら本望だ。
エバートンジャパンも、その文脈にあるひとつの活動である。
きっと、10年後に私がこの自分史noteを読み返した時、恥ずかしさでたまらなくなるだろう。目を覆いたくなるかもしれない。でも、それは成長の証であるだろうし、目の前の枝分かれした文脈の先で励み続けなければ到達できなかった場所に立てているからだと思いたい。
そう考えれば、行き詰まっても、暗礁に乗り上げそうになったとしても、食いしばって歩き続けられるはずだ。エバートンもいつだって同じだ。
失敗や恥ずかしさ、時には運に見放され、側から見れば滑稽な承認欲求や自己顕示欲と称される曖昧なレッテルも、何者かに成るための試金石として役立つだろう。
24-25シーズンの幕開けとともに、私たちファンにも常に新たな扉が待ち受けている。無数に散りばめられた扉を自分で選択し、溢れる情報過多時代を切り拓こう。本当に自分にとって必要なものを掘り下げて、何物にも変え難い宝物を見つけよう。少なくとも、フットボールにはその魅力があると信じている。大袈裟だと見捨てるか、可能の限界を汲み尽くすかは、自分(あなた)次第だ。
気に入ってくださり、サポートしてくださる方、ありがとうございます。 今後の執筆活動や、エヴァートンをより理解するための知識習得につなげていきたいと思います。