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短編小説『予祝』第二章

 初夏。立夏。竹笋生たけのこしょうずの侯。今日が一粒万倍日であることに願掛けて、稲の種を蒔く。木々に若葉が茂り、風景に涼しげな彩りを添える。田園の奥、農道を歩いている子どもが三人。小さなカゴを持っているところを見るに、おそらく野いちご狩りに行くところだろう。寄り道に田圃たんぼに張られた水の中を覗いているようだ。
 ベーシック・インカムが始まって数ヶ月が経った。彼の住む町の様子も変わってきたようだ。第一に都会から人が訪れるようになった。こんな何も無い田舎に何の用があるのかと思うたが、案外移住したいという者が多いらしいことを聞いた。とんだ物好き達が来たもんだと彼は呆れた。
 他にも、移住はせずとも旅行で訪れるという者も多かった。ただ、それに合わせてだろうか、町に棄てられるゴミが多くなった気がしないでもない。
 彼は“よそ者”が来るようになった町を見て、少し悲しく思えた。何者にも邪魔されないあの静かな草原くさはらの空気を、大きな爆音を鳴らした車に揺さぶられるようになってしまっては、野を散歩している鳥たちもそうだが、僕の心にも痛々しい痣ができてしまいそうだ。町の痛みは僕の痛みでもあるが、それでも町は簡単に人を受け入れてしまう。優しさも、醜さも、人の全てを受け入れるこの町が愛に満ちていると同時に、傷を負っているという事実を忘れたくはない。僕はこの何も無い田舎の町が大好きだ。と、彼は思い思いした後、田園の周りを見てみたが、やはりあった。赤色の奇抜な柄をしたジュースの缶が畦道あぜみちに落ちていた。それを拾い上げぐしゃりと潰したかったが、どうやらスチール缶であったようで、うまく潰せなかった。彼は悔しさ半分、諦め半分の気持ちの中で、ゴミがまだ落ちていないかと田園とその周辺を見て回った。すると、農道をこちらに向かって歩く子どもたちがいた。先ほど見た子どもたちだ。しかし、どこか様子がおかしい。野いちご狩りのカゴは空で、それに子どもが一人泣いているではないか。後の二人が泣いている子をなんとか慰めようとしている。
「せっかく、せっかく取ろうと思ったのに」
「仕方ないよ、ヘビが出たんだもん。あのオジサンがいなかったら噛まれてたかもしれないんだよ」
「だって、僕は、お母さんに約束したんだもん。いっぱい取って来るって……」
「あのオジサンが言ってたじゃん。マヘビは人を怖がらないって。一番アブナイやつが出てきたんだぜ」
「また明日取りに行こうよ。親も最近はずっと休みだって言うしさ」
「でも、じゃあ、なんで今日は来ないの?」
「それはぁ……「あ!オタマジャクシいた!」
 子どもたちの注目は田圃の水の中へと移った。親たちは家で何をしているのか。それは第二の町の変化である。家から出ずにテレビや動画配信サイトを長ければ一日中見ているというものだ。最近は親だけではなく、子どももメディア漬けになっているという話を聞くが、この町の子どもたちはまだそこまでには至って無い様子である。この町には子どもたちの遊び場が残されているようだ。
「あ、こんにちはぁ」
 子どもたちが彼に挨拶と軽い会釈をする。
「こんにちは」
 彼も子どもたちに挨拶を返す。
 通り過ぎた子どもたちの声が後ろから聞こえる。
「あのオジサン、酒臭くなかった?」
「酒臭かった!」
「昼から飲んでるとかアル中じゃん」
 それは僕の父親です。と心の中で子どもたちに教えてあげた彼の手には、未だつぶされていないスチール缶が落ち着いているだけであった。

稲の種は芽を生やし、ほんの少しずつ成長していく。その芽は輝かしき命の現れ。その葉は静かに、しかし確かに空気を震わす。万物盈満ばんぶつえいまんの繁期を越えて、今、早苗月と成る天地よ。潤水を以て秋に待つ実りの成るを助け給え。

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