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重陽と菊

 九月八日。白露に濡れる草花の光輝く朝、初老の男は起きて、今日一日を迎えることが出来たのに感謝を捧げ、布団から出た。今日は何をするのかを既に決めている。あの日を祝うための下準備をする日。それを遂行すべく彼は素早く洗面を済ませ、服を着替えて外へ出た。
 天高く、そして青く、そこに薄らとした幾筋もの雲が空に羽衣を掛けているかのように広がっている。陽は燦々と輝いていた。見慣れた田園風景を抜け、花屋へと向かった。
 花屋に着いた。
「ああ、おはようございます。いらっしゃい」
「おはようございます」
「ああ、そうか、今日来るということは、菊の花だね?」
「そうです。十本ください」
「十本。今年も作るのかい」
「作りますよ。お祝いですから」
「今どき珍しいことするねえ。はい、菊十本」
「ありがとうございます」
「そっちの米の具合はどうかい」
「だいぶふとってきましたよ」
「そうかい。今年は期待できるな。なら、また」
「また、ありがとうございました」
 鮮やかな色紙に包まれた菊の花束を、大切に両手に抱え帰路に着いた。
 家に着くと、彼はさっそく準備に取り掛かった。蒸し器と日本酒を取り出して工程に入る。菊酒を作る。菊十本のうちの一本を取り出し花瓶にいける。これは観賞用。残りの九本を菊酒に使う。蒸した菊の花びらを酒の中に入れ一晩置く。簡単な工程の中、彼は祝詞でも上げるかのようにご機嫌な歌を唄いながら作っていた。
 家の中に秋風が吹き込む。あとは明日を待つのみだ。

 今年の夏は野分が少なかったが、雨の日が続き作物の成長を遅らせた。しかし、お盆を過ぎた頃からか、日が照り出し、涼しい風が吹き始め、田圃の水を光らせた。
 そして九月になった。
 木の葉は黄色く色付き始め、そして地面を彩る飾りとなる。柿、丁翁は大きく膨らみ、じきに色が変わる。栗はイガを外に分けに分け、その実を表へと出していた。
 聞いた話によると町にはもう既に栗が売られているらしい。実のところ、私も既に人から貰っていくつか食べていた。ホクホクとした実の温かく噛めば噛むほどホロホロと崩れてしまう柔らかな味。少しばかり秋の味覚を堪能したのだった。
 初老の男が一人、小荷物を抱えて田園へと向かっていた。
 今年のお米はどうだろか。野分の少なかったのが幸いだ。しかし、収穫までには時間がある。野分の穏やかでありますように、と彼は祈るように思い思いして歩いていた。田圃の水は無くなり、あとは稲穂が黄金色に染まり、その頭が大地へ向かって垂れるのを待つばかりである。
 するりと吹く風に服を膨らませながら畦道を歩く。畦道には紅色の彼岸花が並んで咲いている。その列を避けながら更に畦道を進んでいく。
 ここらでいいだろう。畦道の交わった所に少し広がった野原を見つける。彼はそこに座ると持ってきた菊酒と杯、蒸した栗、それから菊の花を一本取り出し、菊の花は地面の柔らかな場所に突き刺し立たせた。彼は菊酒を杯になみなみと注ぐと点を仰ぎ、そして杯を天に掲げて乾杯した。酒の面が光る。そして杯に口をつけ少しずつ、一口一口を大事そうに呑んでいた。酒のつまみに、蒸した栗を一粒口に放り込む。噛めば噛むほど味わいの増す、まさに美味であった。地に刺した菊の花は風に揺れ、黄色い花びらは太陽の光で鮮やかな色味に変化した。それは向日葵には劣るかもしれないが、しかしその姿は大地に咲くもうひとつの陽のようであった。少し酔いが回ったのか彼はある幻影を目にした。黄金色の髪の乙女、その髪を涼風になびかせて、収穫の時までゆうらりと揺れ、ささやかな踊りを見せる。時に蜻蛉が止まりその髪を飾り、時に雀が止まりその髪にイタズラをする。
 彼はそんな幻影を見るか見ないかしながら、再び空と乾杯を交わした。乙女の幻影を見たからかどうか、体が熱っぽいのを、どうにか秋風の涼しさに任せて冷めるように、願った。あの乙女が地に伏しませんよう、お天道様よどうか御顔を出してくださいますように。
 畦道の小さな雨蛙が草むらへと飛び込んだ。


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