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花緑青色の遺言

 昔、花緑青はなろくしょうの画家と呼ばれる男がいた。
 彼はパリスグリーンと呼ばれる人工顔料だけを用いて、キャンバスに絵を描いていた。描かれた絵はどれも抽象的な模様ばかりであった。その為かどうか、絵は全く売れずにいた。
 彼はこの色の虜となっていた。初めてこの色に出会った時に、何も言わずに一目惚れをしてしまった。この色こそ自分が求めていた色だと、人生の全てを賭けていた。キャンバスの上を走り出した筆先は、今日も輪郭の定まらない模様を描いていく。くねり、ゆらぎ、とがり、まがり。人に理解されずとも、己の魂を込めて描き上げていくのが画家、もとい、芸術家の役目である。この絵がいつか日の目を見る時が来る。それを信じて描き続けた。たまに来る目眩のちらちらとした光からアイデアを貰い、それを形にしていく。目眩は彼に良き閃きを呼んだ。
 描き上げた絵達が部屋に並べられる。いつか個展へ行き、そしてこの絵達が皆に買われていく光景をまぶたの裏に思い浮かべる。早く、その時が来ればいいなあと思いながら仮眠をする。短くても、良い夢が見れますように。

 数ヶ月後、彼はその色に毒性があることを知った。それからというもの、彼は取り憑かれたかのように花緑青色を愛するようになった。身体をむしばみ死へと至らせるこの色と共に、人生を歩むことを決意した。これすなわち、死を選ぶということであった。彼が花緑青色をもって絵を描く姿は、死へ近づく為の儀式とでも呼ぶべきか。死を選び、色に縋り、最後まで画家として作品を残さんとする。その様を愚行と見るか。
 彼は筆を置き、しばし立ち尽くす。この生は何のためにあったのだろうか。この色と共にあり続けることが使命だったのであろうか。取り憑かれていたのは私か、それともこの色か。どちらにせよ時間はもう残されてはいないはずだ。花緑青の毒で命を絶つ。それが私の人生であるならば! しからば、身体にその毒を馴染ませ画家としての華やかな死を遂げて見せようではないか。再び筆を走らせる。その絵には色だけが描かれていく。その色と親しむために。その毒を身体の奥深く送り込み、さらに魂に刻み込むために。
 突如、吐き気に襲われた。身体を丸め込み、彼は地に伏した。身体が毒に反応していると知り、彼は涙を浮かべた。嗚呼、これが私の人生か。死ぬまでにどんな痛みが待ち受けているのだろうか。花緑青よ、どうかすみやかに、安らかな眠りを我に與給あたえたまえ。彼はそう祈りつつ、塗りかけのキャンバスへと向かう。これは出会った時から定められた運命なのか、それとも画家を目指した頃からのものなのか。どちらにせよ、彼に残されたのはその色だけであった。
 彼が最後に描いた作品は大変良いと評価された大作であった。その絵は現在、厳重な管理の元に展示を許されている。その絵は彼が日常的に描いていた抽象的な模様ではなかった。それは花緑青色で描かれた遺言であった。内容はこうである。
「死ぬ為に生きてきたと言っても過言ではない私を、愚かだと思うだろうか。花緑青色を愛すること、それは死を選ぶということである。私の生にいて本当の意味の自由とは、死ぬことである。私は私の使命を果たした。花緑青色と共に死ぬこと。それが私のたった一つの使命だった」
 花緑青色、基、パリスグリーンは強い毒性のために現在では使われなくなった。それは彼の死が原因かどうかは知るよしもない。

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