【血縁によらない大家族づくり】

今、日本の景気は悪いまま、給料そのままで物価が上がり、「コロナ」は終息せず、マイナンバーによる個人情報の一元支配や軍事費増強による戦争への巻き込まれが囁かれている。
昨年も書いたが、国に頼らない、同じ思いの人で暮らす「自治コミュニティ」が求められている。
税金を払わず、その代わり国による支援を一切受けない代わりに、国の命令を一切聞かない、そんな強い態度が求められているのだと思う。

ところで、日本は80年前の戦争以来、社会が大きく様変わりしてきた。一番の変化は、地方から都会へ、大家族から核家族へという変化ではないだろうか? これには様々な思惑があり、国としては焼け野原からなんとか重工業を中心に産業を復興したい、家電や家具メーカーは大家族でまとまって暮らすよりも、世帯数を多くさせて、各世帯にテレビ、冷蔵庫、洗濯機、車、その他もろもろの製品を買わせたい、そうすれば会社は儲かり豊かになれる。しかし、これは一見いいように見えて、非常に効率の悪さを孕んでおり、人々がバラバラになることで人情や人間関係の阻害、喪失を生む懸念があり実際そうなってしまった。

多少不便でも、10人から20人くらいの単位で一つの電化製品を共用すれば、費用の負担が少ないし、環境に対する負荷も非常に少ない。各家庭3人とか1人に細分化されたから、一生懸命働かないと家賃、光熱費、家電製品、車などの代金を維持できないし、寂しさを埋めるための産業も必要になってくる。まさに産業は栄えるかもしれないが、人々は実は貧乏。それが令和の姿ではないか?

では、大家族をもう一度復活させ、そちらのほうに人々を誘導すればいいのではないか?
そう思うかもしれないが、わたしは戦前までにあったようにな、田舎の大家族というのは日本でもう元に戻ることは難しいのではないか?と思っている。もう人々が都会に移住してしまっているし、社会的にも子どもをたくさん埋めるような社会ではなくなっている。そして何より、大家族は大家族血縁であるが故の不便さや理不尽さ、不自由さを内包しているのもまた事実である。個人や若夫婦子どもで独自の考えを持つことは難しいし、大家族内で弱い人間がしたくもない仕事や用事を押し付けられることだってある。

ならば、一つ屋根の下に何十人も住む血縁で繋がった家族ではなく、現代のように夫婦単位で、あるいは個人、友人単位で棟の分かれた小さな家に住み、そこはそこで独自の生き方をしながら、ご飯と農作業など共同作業だけみんなと一緒にやる。住まいとしては別々だが、大きなゆるい大家族として一つの区域に固まって住み、助け合い励ましあいながら生きる、そんな「村」なら現代の価値観で無理なく、衝突も少なく暮らせるのではないだろうか?すなわち最低限のものは個人所有、トラクターや脱穀機、車や洗濯機は共同所有。以前、愛知県の佐久島にそういうデザインの住まいがあり写真を上げた。(この写真)中央に共同作業場や集会所があり、それを囲むように小家族単位の小さな住まいと畑がある。縄文時代も実はそのような構造であったと聴いている。

もう一つ、わたしが強く思うのは、子どもの小さいうちからの保育園問題と出産後の女性の労働問題である。世間では保育所の数を増やしたり、女性も男性並みに仕事をすることがいいことだという風潮がありそうなってきたが、これは子どもにとっては発達上あまり良くない。構ってくれる大人は親ではないし、親は仕事で忙しく短時間しか触れ合えない。これが戦前の大家族だったら、妊娠・出産のときは共通認識で気兼ねなく休めるし、小さな子どもはたくさんの近しい大人や兄弟が面倒を見てくれる。保育所や幼稚園はいらないし、女性も子育ての側、できる範囲内で農作業などに従事できる。こちらのほうがずっと合理的で無理がなく、お金もかからないのではないか?

わたしがこういう考えを抱いたのは、理想を求めていたらそうなったというより、福祉の仕事をしていて直面する現実的課題から、今の行政・福祉制度の限界と、その解決を考えていったら、そこにたどり着いたと言ったほうが正解だと思う。当時わたしは、精神障害者と呼ばれる人のお世話をしていて、作業所と呼ばれるところや精神科クリニックと呼ばれるところで勤務していた。無数に課題はあるが、まず彼らの行き場所がないということ。家族に捨てられ、会社に捨てられ、何らかの症状を発症していて、薬で無理矢理抑えていれば作業所などで大人しく過ごせるが、幻聴幻覚や躁状態、動けないほどの鬱など発症してしまうと、引き取る家族もない場合は、精神病院というところに半ば強制的に入院させられてしまう。病院と言うと治療してくれると言うイメージかもしれないが、精神病は世界的にも治療技術が確立されておらず、病院と言うより収容所といったほうが合っている。そこでは本人の意思に関わらず薬物治療と拘束が行われ人格がどんどん低下していく人も多い。なんとか入院させずに済む方法はないかと、いろいろな施設を探して回ったが、残念ながら日本には要介護でなく、犯罪を犯していない人間で、家族が面倒見れない人が居れる場所は精神病院しかないことがわかった。

また、精神病だけでなく、DVで逃げて行き場のない女性(時には男性)の居場所の問題も深刻である。都会にはシェルターと呼ばれる所が少ないけど用意されているが、絶対に住所が教えられない、入所しても自由が制限される、居場所を加害者に見つかるとまた違う所を探さなくてはいけないなど非常に閉塞感の強い、限定された肩身の狭いものを感じた。

そういう人たちをなんとかしたいが、社会資源が乏しくなんともならない。なら社会資源を増やせばいいのか?それだけでは解決にならない。ならどうしたらいいか?そういう人たちを包みながら他の人も自分のペースで日常を送れるような無理のない社会。そうなってくると大家族的なゆるい繋がりの中でみんなに守られながら生きる。そういう姿しかないのではないか?

ところで、人間は贅沢しなければ、着るもの、食べるもの、住むところがあれば一生生きていける。消費という活動に軸を置かなければ十分豊かな暮らしができると確信している。これを達成するためにお金は必要か?

・着るものは、日本では都会に服の捨て場コンテナがあるほど有り余っている。おしゃれをしなければ厳冬がしのげるほどの服が手に入る。

・住むところは、田舎であればたくさん空き家が存在する。また財産対策で保有されている家も多く、交渉次第では、住むことによってメンテナスがされるならば無料で住んでもいいと言う条件も引き出せる。過疎地で正規に家を安価で購入することもできる。14万円や100万円を切る価格で大きな家を手に入れることもできる。少子化対策の地方自治体の支援を受ければそれらもほぼ無料にすることもできる。

・食べ物だけは恒常的に入手する必要があるが、自分たちで生産すれば、太陽と空気、水の恵によっていくらでも作物ができる。野菜だけでなく、水田をやって玄米を食べればミネラル、カロリー不足は補える。鶏や家畜を飼って肉を手に入れるのもいいが、肉を食べなくても豆を生産すればタンパク質も補える。肥料や農薬のいらない自然栽培を勉強すれば金をかけずに食料生産ができる。現代人はもっと自然の恵だけでびっくりするほどの食料が生産でき、たくさん食べなくても元気に生活できるという事実を知るべきである。

わたしは、24歳の時に自宅の全焼が引き金となり重度のうつ病になった。その時、半年ほど何もしないで休める場所があればよかったのだが、親からお金を出してもらって大学を卒業したばっかりだったのと、その親の反対を押し切って自分の夢のために上京したばっかりのタイミングだったので、実家には帰れず、甘えてはいけないと必死で働いた。精神科の薬を飲むことには懐疑的だったが、気がつけば1錠さらにもう2錠と飲む量が増えていき、多い時は一日20錠近くを飲み働けずにずっと横になっている時もあった。実質その後20年近く薬を飲む羽目になり、仕事のパフォーマンスも落ち、結局何一つ業績を残せないまま人生の貴重な時を無駄に過ごしてしまった。

このあたりの経緯は本にまとめているので興味があったら
「精神薬やめたら病気が治った: 精神医療・福祉の真実 」
https://www.amazon.co.jp/dp/B08X4KYKC3/ref=cm_sw_r_cp_api_SCJX1GE5N81A896NZ4N1

その後、薬を止めることができ、うつ病を調べて行ったら、うつ病は半年ほど何もせずに自然治癒することがわかった。もしあの時、無理をせず、薬に頼らずしっかり休めていたら・・・ お金や居場所がなくても安心して仕事がさぼれる場所があれば・・・
そんなことをずっと考えて、身一つで逃げて来られる、血縁に寄らない大家族というコンセプトになった。

そのような体験を生かし、現在は減断薬カウンセラーとして電話相談も受けているが、薬を止める時、わたしもそうだったのだが離脱症状(禁断症状)という辛い症状が出て止めれずいる人がたくさんいることも知った。せめて働いたり、家族の顔色をうかがわずにいられる場所があったらというのも、このコンセプトに繋がっている。

また可能性として考えられるのだが、新型コロナを機に、ワクチンの接種やマスク着用の同調圧力的強制、飲食店などの営業禁止、行動制限など、非科学的ではあるが人々を分断し管理的に扱うという社会のあるまじき現象が起きた。今は少し収まってきたという見方もあるが、ここに来てマイナンバーカード(国民総背番号)の健康保険証と運転免許証への紐付け、憲法改正による緊急事態条項の明記と発令の動きが明確であり、都会に住み監視社会を受け入れるか? 過疎地へ逃れ政府のシステムから離脱し有志で助け合って暮らすか? の二択が迫られているとも言われている。

大打撃を受けた飲食店、観光業、イベント関係の人は無職になり、年齢によっては再就職ができず、お金がなくても生きていける生活の場が求められている。政府による給付金やベーシックインカムもあてにはならないし、それをもらってしまうと監視社会に組み込まれるという懸念もある。そういったことを回避するには、食糧生産のできる田舎で、政府や自治体の支援を受けない代わりに従う必要もなく、皆で助け合って暮らす以外にはないのではなかろうか?

では、なぜ家族ではなく血縁に寄らない大家族なのか?
日本では生涯未婚率(50歳までに一度も結婚しなかった人)が男性の28%、女性の18%(2022年調査)がいると言われている。また化学物質やワクチン、出産の高年齢化、様々なストレスなどで男女問わず不妊が増え、子どもを持たない、持ちたくても持てないという世帯やカップル、個人が増えている。結婚制度は男系の財産の相続のために100年前に造られたに過ぎず、3組に1組が離婚するという状況の中、疑問を持っている人も多い。

つまりは家族というものが持てない人が急増しているのである。
バラバラで住むと、前述したように効率が悪く、寂しさを埋めるための産業や国家による公助が必要になってくる。その面からも血縁に寄らない大家族というのは大きな意味と可能性を持っていると思う。

また、親に捨てられ児童相談所を介して児童養護施設で育たなくてはならない子どもも多い、特別養子縁組などの精度はあるが、まだまだものすごく少ない上、健全な男女の夫婦であることが条件となっており、シングルや子育て経験のない未熟なカップルでは受け入れてもらえない。血縁に寄らない大家族で、そういった子どもを引き取り、皆で育てることができるのではないか?

いずれにせよ、個別化、疎外化した社会では、逆に何らの形でまとまる力や集合体が求められると思う。国は100年前の制度・価値観で動いているので全く機能しないとわたしは見ている。

コロナを機に、国家による統制、社会の分断が加速している。
行き場のない人が増えて自殺しかないと考えるのであれば、行き場と希望をつくろうではないか? 学校で子どもが壊れるというのであれば、みんなで学校以外の教育の場をつくろうではないか? 安全な食べ物がないというのであれば、みんなで生産して安価に分かち合おうではないか?

すでにそのようなことを考えて動いている人やグループがいる。
ミナミAアシュタール、大西つねき、さとうみつろうといった人は都会から移住し拠点を創りつつある。マドマゼル愛さんは都会でそれをやろうと言っている。
こういう方々と連携し情報交換しながら進めていけば、孤立することなく、自立した個人の集合体づくりが進んでいくと思う。

2023年(令和5年)はそれに向けて具体的に動いていきたい。
必要なものは
・同志(賛同し参加する人)
・資金(賛同するが参加はできないが協力する人)
・家や田畑など土地の提供者
である。増えれば増えるほど、お金やリスクなく参加しやすい環境が整う。

悲惨な状況に追い込まれる前に行動を起こしたい。
連絡をお待ちしています。
naganotetsuji718@gmail.com

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