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母の引越し その2

「引越しその1」であれだけ強硬に引越しに抵抗した母。
その母が翌日の電話ではケロッとした声で
「たしか引越しは明日よね~」
ときた!
どどどどどどどうした!?
衝撃なんてもんじゃない!
昨日のすったもんだ騒動、すっかり忘れちゃってる?
受話器を握りしめたまま、しばし二の句が継げない。
息を整え、気を取り直して平静を装う。
「引越しは絶対しないって言うから、全部断ったよ」
引越しも高齢者用アパートも全てキャンセルしたことを何度も説明する。
よくよく聞けば昨日引越しを断ったことも、一筆書いたこともちゃんと覚えている。それなのにまだ引越しすると思い込んでいるとは?
いったいどういうこと?

午後になって母から電話。
「それで引越し業者はいつ来るの?」
えー!!
午前中の電話忘れてる?
あんなに説明したのに!?
深呼吸して、もう一度朝と同じ説明を繰り返す。
「ええっ!?全部断っちゃったの!?」
と母は腰を抜かさんばかりの驚きようでこっちの方が驚く。
昨日絶対ここを離れないって言い張ったでしょ?と話すと
「絶対引越さないなんて言ってないのに」
とぶつぶつ。
いやいや、死んでもここを離れないって言ってたじゃない。
「あ~あ、今年の冬は床暖房の部屋でぬくぬくできるって思ってたのに。あれは夢のまた夢かあ~」
ため息交じりにつぶやく母は自分の言ってることが明らかに矛盾していると気づかないのか。
「昨日『引越します』って書けと言われてたら、きっとそう書いたわね」
などと呑気なことをのたまう。
あの剣幕を覚えてないの?
あれじゃどんなに強要されたって絶対書くわけないでしょ。

翌日また母から電話。
「これからのことはあなたたち夫婦に任せます。いいようにして。養老院でもどこでも入ります」
捨て鉢というよりは、先日来の自身の行動を振り返って、自分でも何かがおかしいと感じたゆえのしごく冷静な発言のように聞こえた。
「何言ってんの。お母さんの人生でしょ。自分のことは自分で決めなきゃ」
と言うと
「この年になったらね、人生なんてないの」
と。そんなこと言わないで、としか返せなかったけど、生きている限りその人の人生は続いていくんだと私は信じている。

午後になるとまた母から電話。
「で引越しはいつになったのよ?」
うおー!!
また戻ってる!
これってまさかの無限ループってやつ?
実家へは週末に行くつもりだったけど、他の予定キャンセルしてでも一度面と向かって話した方がいいのかな…悶々していた翌日、また母から電話。
「結局引越しのキャンセル料はいくらになるの?」
あ、先に進んだ!
それ以来、母が引越しの無限ループに戻ることはなかった。ホッ…
思うに、段ボール箱から取り出した荷物をタンスや引き出しに戻すうち、だんだん戻してるのか出してるのか判然としなくなり、いつしか引越し準備をしている気分になってしまったのではないだろうか。
全部の物が所定の位置に片付いたところで、やっと引越しが母の頭から消え去ったのかもしれない。
この騒動で分かったのは、引越しは母にとって心身ともに想像以上のストレスだったということ。
自ら言い出したくらいだから、1人暮らしがしんどくて食堂付きのコンパクトな高齢者用アパートに引っ越したい気持ちも十分にあったのだと思う。
反面、住み慣れた我が家を離れる寂しさ、ご近所さんと別れる寂しさにも大きく心揺さぶられていたのだと思う。
どちらも本当の気持ち。
引越し準備やご近所さんへの挨拶周りをするにつれ、しだいに寂しさの方が募ってきて、その思いが「私は引越しなんて望んでいない」「嫌がる私を娘が無理矢理養老院(そもそも養老院ってなによ?)へ送り込もうとしている」っていう妄想を生み出したんじゃないか。
母の中で引越しと養老院行きはどうも別物だったように思えてならない。

引越しがおじゃんになって、それはそれで良かったのかもしれないと今は思う。
最近母は物忘れに加えて妄想のような作り話がすごい。自分に都合のいいお話を作り上げては現実にあったこととして信じ込んでしまう。本人は普通に現実だと思っているから、否定しても信じてもらえない。
特に探し物が見つからない時は決まって私が持ち出したことにされる。実際にありえそうなストーリーが出来上がっていて、言ってもいないことを言ったと言われ、してもいないことをしたと言われる。
たいていは探していた物が見つかるので疑いは晴れるのだけれど、見つからなかったらきっと犯人にされたままになってしまうのだろう。
こんな調子だから、もしもアパートに移っていたら入居者さんとの間で深刻なトラブルを巻き起こしていたかもしれない。
周りの友人の話を聞くと、親御さんは多かれ少なかれ母と同じような作り話をしている。年を取るとみんなそんなふうになっていくのかな…

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