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『ノー・ライト』感想 新野守広

地点を見始めたのは、2003年11月の『三人姉妹』からだった。春風舎の舞台には多数の古着やシーツが吊るされ、その前に椅子や机などの古道具が置かれていた。古道具に座る三人の女たち。彼女たちの背後から現れて、床に身を投げ出したり、バスタブから這い出したりする男たち……。どこかSCOTの『三人姉妹』を彷彿させながらも、意外な所で台詞を切ったり、通常のアクセントの位置をずらしたりして台詞を語る俳優たちの人工的な発声は、すべてを形式の遊戯に作り直し、内面から解放された身体を試そうとする野心を感じさせた。

その後、2004年1月の『名前/眠れ よい子よ/ある夏の一日』(ヨン・フォッセ)から2022年末の『ノー・ライト』(イェリネク)まで、関東で行われた公演のほとんどを見た。『名前/…』と重なる期間には、太田省吾演出の『だれか、来る』(フォッセ)も世田谷パブリックシアターで上演されていた。出演した品川徹と荻野目慶子は自然な感情の発露を抑え、動きを遅くした演技を行い、それが見る者の心に緊張を生み、ほんの少しの手の動きからも男女の細かい感情が伝わってきた。一方、地点の『名前/…』の俳優たちの演技は所作も発声も様式化されており、いわゆる自然な感情が客席に伝わることはなかった。しかし、網で覆われた狭い室内に閉じ込められた人間の閉塞感は強烈に伝わってきた。三浦と太田の演出は鮮やかな対照をなしていた。

野心的な地点の舞台は見る者の感性を選ぶ。作り手の意図を頭で理解するにとどまるか、表現として体ごと体験できるかは、舞台が始まってみないとわからない。たとえば2010年に見た『――ところでアルトーさん、』では、私は舞台に置いてきぼりを食らった。アルトーについて自分が知っていることをもとに、作品の謎解きをするのが精一杯だった。

一方、2012年の『光のない。』は忘れがたい。中央正面が四角形に開き、手前に12人の合唱隊が足だけを観客に見せて横たわっている。潜水用の足ヒレを履いて駆け回る俳優たち。彼らが語り出す水の話や連呼する「わたしたち」は、否が応でも津波を連想させた。マッサージ器と思しき機器を身につけて鈴を演奏する俳優。音楽監督三輪眞弘氏の独自の演算を用いた作曲に基づいて音程を変化させて歌う合唱隊。俳優たちの独特のアクセントと抑揚のある発声。それらの肉声が次第に高まる中、「死」が心に迫り、感動を得たことを今でも思い出す。

ところが今回の『ノー・ライト』は私にはつらい体験となった。俳優たちが発する言葉の多くは外国語である。どうしても字幕を頼りに意味を追うことになり、文字に気を取られ、なかなか舞台に集中できなかった。声を音のまま、言葉としての意味を考えずに、美的体験として享受できればよかったのだが……。

『騒音…』のテキストはパンデミック下の陰謀論やメディアの狂騒、ホメロス、ハイデガーなどをモチーフしているという。舞台とどのように出会えるか、楽しみにしている。

(ドイツ演劇)


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