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まじまじと手にとって、見つめる


ゴールデンウィークは特にやらなければならないことがなく、近所を散歩したりランチに行ったり、本を読んだり友達とzoomをしたりして過ごした。そしてそういう緩やかなテンションは、緊急事態宣言が延長された今も続いている。

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穏やかにボーッと過ごすことが許される日々。

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コロナ以降、私はこの「何もしないでもいい」ことを昔よりずっと簡単に許せるようになった気がする。

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東京に居た頃。SNSでとめどなく流れてくる公演情報や、信頼する誰かが「すげー良かった!観た方がいい。」と書かれているものが手の届く場所で行われているのに「観に行かない」という選択肢を取った時、いちいち罪悪感が湧いて苦しかった。

一体あれは、何だったのだろう。

「距離」の変化も関係しているかもしれない。兵庫(の山間部)に来てから、物理的にダンスや演劇、アートに触れる場所が簡単に手に届く場所にない。

それこそ東京から移住したての頃は、自分の手でアートに触れられる場所を何とか作ろうと躍起になっていたのだけれど、コロナで全ての足止めを食らった辺りから、それらは実は、本当にやりたいことではなかったことに気づいてしまったのだ。

姿がぼんやりしている「誰かのため」に何かを継続しようとすると、私の中の何かが擦り減っていく。私は私のために、私にとっての豊かさのために忠実になったほうが、よっぽどマシなのではないか?

そう思って昨年からコツコツと自分のためだけの活動を始め、仲間に声を掛けて創作を共有し、作品を創り上げたときの充実感と気づきは、今までのそれとは大きく変化していた。

「芸術」は、誰かから評価されることとは切り離せないものだと思っていた。「ダンス」を続けていく為には、他者からの評価を得て助成金を貰えるように実績を積まなければいけないと思い込んでいた。

私は気づかないうちに、私の欲求と豊かさの基準を、他者が描くものと混合していたことに気がついた。

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2020年から2021年3月という月日のなか、他者からの評価ではなく、私自身のものの見方を深め、仲間と共有していくことで得たものー

作品を発表することで評価を得て次の展開を図るという考え方を、一度横に置いてみる。

創作において派生する気づきや仲間との対話が、実は生活に豊かさをもたらすことを噛みしめる。

私にとっての豊かさは、作品を発表する以前の創作過程においての自己対話と、他者とのコミュニケーションであり、私にとってはそれが芸術であると気づく。

いや、そんなのは甘いよ。
それじゃ、ただの趣味でしょ。

私の深い部分で過去の私がそう叫ぶのも許してみる。

まあ、創っただけで自己完結することが良いことだとは思わないけど、そうやって芸術との距離をその都度捉えながら価値を変容させていくことを、昔は出来なかったというだけの話です。

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腹に手を当てると、時々ピクピクと動くものがある。

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私が中心にまわっていた世界から、私以外の誰かのために全ての時間を割くという時期がこれからやって来ようとしている。

恐らく

周りと比べてたら身はもたなくなるだろう。

今までの価値基準では動けなくなるだろう。

そんなことより、環境に合った方法を模索して生きていくより他ない。

今までのそれとこれは違うことを、まじまじと手にとって、見つめる。

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また別の角度から見られる豊かさと、芸術との新たな距離感との遭遇を今から楽しみにしておこうと思う。

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伊東歌織の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/ma837b53474b3


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