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それでも職場に来る君へ

 雨の日も晴れの日も、嵐だろうと吹雪だろうと、病院という場所には24時間365日いつでも誰かが何かを求めている。


 「おはようございます。」
 最近ロッカールームでよく見かける事務職員の女性が、ニコっと笑いかけてきた。
 パーマだろうか?パツンと切り揃えた前髪にフワフワの巻き毛を束ね、頬にはピンクのチークが入っている。スラリとしているがどこか儚げで、事務職員の制服よりも、ふんわりしたワンピースやドレスが似合いそうだなぁと思っていた。
 そんな彼女が私を覚えていてくれたのか。
「あ、おはようございます。毎朝、早いですね。」
 羽織ってきたコートを脱ぎながら、寒くなると通勤も億劫だなあとぼんやり考えつつ答えた。
 彼女はフフっと笑いながら、「そうですよね。でも私、早く来ないと準備が間に合わなくて。」と急ぎ気味にブラウスのリボンを留めている。
「準備…。受付窓口も忙しいですよね。お疲れ様です。」
 ありがとうございますと彼女は頭を下げ、サイズの合っていないサンダルをパタパタ鳴らしながら、扉の方へ消えて行った。
 あのサンダル、いつもパタパタさせているのだろうか。
 私が学生の頃、指導教員に足音を立てずに歩きなさい!と言われたことを思い出す。あの先生は、気が付けばいつも側にいた。足音一つ立てずに近づいて、背後から手技を見ている。
 私もそれを教訓にしてきましたよ、とシューズに履き替える。


 この時期は忙しい。
 夏の陽気な太陽と過ごし、緩んでいた身体も心も、季節の移ろいと共に変化していく。昼間の時間は短くなり、植物たちの姿も寂しく、冷たい風が全身を通り抜けていく。人間とは不思議なもので、寂しい時期にちゃんと寂しくなるようにできている。
 なんとなく不調の人が増える時期でもある。
 自分もなんとく不安となるのが分かる。帰りは暗いし、寒いし、着るものは増えるし、手足は冷える。院内は暑いぐらいなのに、一歩外に出れば木枯らしで、身も心もキュっとなる。
 


 「この書類、下に下ろせる人ー!」
 みんな自分の仕事で忙しい。忙しいけれども、自分の仕事の範囲外もお手伝いすることがある。そして、私はそういう時、必ず手が空いているのだ。
 「はーい!私、行きますよー。」
 廊下を音もなく歩きながら、窓の外に目をやる。色付いた中庭の葉。所々くすみはじめ、枯葉となっている。
 やだなあ、今日も寒いなぁとジメジメしながらあの女性がいる受付窓口へ。
 窓口は患者さんへの対応や書類の処理などで慌ただしい雰囲気だった。
 そろりそろりと近付き、声を掛けるもキッと睨まれ「何ですか?今じゃなきゃダメですか⁈他にありますか⁈」と言われたような気がしてたじろぐ。まだ声は掛けていないはずなのに、返事が聴こえるなんて。やはり私も心がちょっと秋模様のようだ。
 
 窓口の奥の方でロッカールームのあの子を見つけた。いつもの朝の雰囲気とはまるで違う。何かを謝り、何かを探し、何かに追われてパタパタしている。
 一生懸命なのが分かる。一年目だろうか。
 あの子も頑張ってる、私も頑張ろうとその場を後にした。


 その後、あの子が気になり、窓口の近くへ行く時は姿を探すようになっていた。
 やはり何か引っかかる。先輩であろう人たちに何か言われて頭を下げている姿を目にすることが多いのだ。
 時を同じく、同期の友人からあの子の話を聞くことになった。
 「事務の話なんだけど、仕事のできない子がいるんだって。4年目になるらしいんだけど、最初に教えた基本を忘れているらしくて、毎回毎回初めから教えてるみたい。」
 ドキンとした。
 自分の直感に引っかかったのがあの子なのだ。
「しかもね、分からないなら聞けばいいのに、自分のやり方で進めちゃうらしいの!周りはフォローしなくちゃいけないし、仕事が増えるしで雰囲気悪いらしいよ。事務のことは分からないけどさ、自分の後輩がそんなんだったら、私だったら面倒見切れないって思っちゃうよね。」
 同期の言いたいことも分かる。失敗の皺寄せが自分にくる。それを対処しながら自分の仕事もこなさなくてはいけない。
 だけど、もし、その人が全力で頑張っているのだとしたら?
 自分でも何がダメで、どうしていつも注意されているのか分からないのだとしたら?
 「ねぇ、聞いてるー?4年目ってさー、仕事ができるようになる頃で、後輩もできる頃じゃん?未だにいつも注意されて、その人、なんで辞めないんだろうねぇ。辛くないのかなぁ。」
 「…多分、辛いよね。」
 辛くない訳がないじゃない。

 
 木の葉が全て落ち、夕方なのに真っ暗で、蛍光灯だけが白々しい。
 そんなロッカールームで制服を脱ぐあの子に会った。
 「あ、お疲れさまです。」と小さく笑って頭を下げてくれる。蛍光灯に照らされた微笑み。その後ろが真っ暗で息を飲んだ。
 「お疲れさまです。今日は遅いですね。私もようやく帰れます。」と目を逸らして話す。
 あの話を聞いた後で、何を喋ればいいのか分からなかった。
 ふと床に目をやると、大量の付箋が挟まった資料と自作ノートが数冊。脱ぎ捨てられた制服からこぼれ落ちた分厚いメモ帳。
 頑張ってるよ。
 耐えてるよ。
 辛いよね。
 大丈夫なの。
 苦しくないの。

 じっと見つめる私に気づいたのか、彼女はゆっくりとそれらを拾い上げながら話してくれた。
 「これはお守りです。」と少し照れたように鞄に仕舞い込む。
 「私、働きたいんです。迷惑かけてばかりなんですけど。昔から自分が何をしているのか分からなくなる時もあったり、やっていることが間違いだったりするんですけど。それでも、ここに就職できたから頑張りたくて。」
 「そうなんですね。」とロッカーの扉を閉めながら、小さな声が出るだけだった。
 「時々、私は邪魔かなって思う時もありますけど…」と彼女もロッカーの扉を閉めながら言った。そして、「それでは失礼します。」と軽く会釈し、暗く寒い外へと消えて行った。

 私は辛かったら逃げてもいいし、身を置く場所を変えてもいいと思っている。
 ただ、彼女はここで自分の中の何かに挑戦しているようにも見えて、胸が苦しかった。
 彼女の本音は何なのか、私には知る由もない。それでも、あなたを理解したいと思っている、あなたが苦しそうに見える時がある、と伝えてみても良かったかなと後悔している。
 それから、あなたの笑顔が素敵なことも伝えておけば良かったなあ。

 
 
 









 

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