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人類学の道第七回 :『関係としての自己』(1)

はじめに

前回noteを書いてからすでに一年が経過していた。思えばこの一年は本当に色々あったと思う。京都大学で人類学院生としての人生をスタートしてから今に至るまで、辛いことも楽しいこともあった。辛いことはここでは書くまい。だが学問にしっかりと向き合い、学友や諸先輩方、さらには教官たちからの多くの刺激は確かに私の知力を大幅に伸ばしてくれたと思う。その証拠に、人類学からは遠いが、西田幾多郎の「場の理論」への理解が深まったように感じる。ありがたい限りである。

さて、筆者は兼ねてからインゴルドに傾倒しているのだが、大学入学時に抱いていた「盲信(これは副指導教官に言われたことだが)」がだいぶ薄らいでいるように感じる。もちろんインゴルドが自分の中で偉大が人類学者であることに疑いはなく、対面していただいた恩も一生忘れることがないだろう。だがハイデガーがフッサールと袂をわかったように、いや、もっと遡ればアリストテレスがプラトンと対立したように、師とはその後を追うものたちに乗り越えられるのが定めではないのだろうか。きっとそれは思想家の伝統に違いない。

そしてその盲信からの脱却に一役買ったのが、我が準指導教官大好きの木村敏である(ちなみに人類学研究室に入ったつもりなのだが、気がつけば哲学・心理学・そして社会学に詳しくなった気がする)。今回は木村敏の『関係としての自己』についてこのnoteに連載し、まとめてみようと思う。

著作概要

『関係としての自己』は精神科医木村敏の論集である。書かれている内容は追悼文であったり批判に対する再批判であったりとまちまちだが、ここではこの著作で展開されている基本的なアイディアについてまとめようと思う。なお我が準指導教官に怒られるかもしれないが、論文ではないのでどうか孫引きを許してほしい。お願いします…

「私」とは何か

「私」、という言葉を聞いたとき、人は何を思い浮かべるだろうか。「私」という語は「私」という発話している存在を指す言葉だ。人は自らのことを他者に示すとき、会話の中で「私(あるいは「俺」「あーし」「朕」…etc,etc)」という言葉を使う。ひどくシンプルで、ひどく当たり前のことのように感じる。

だが少し考えてみてほしい。今まさにこの文章を書いている「私」と、この文章を読んでくれている読者の「私」は異なるが、自分のことを「私」ということ人間はごまんといる。「普遍的で個別的」、あるいは「一般的で特殊的」、この「両義性」を「私」という言葉はもつ。

それはヴィトゲンシュタインがいうように、ただの言語ゲームに過ぎないかもしれない。だが「私」という存在を認めるとき、必然的に「私以外」の存在が立ち現れるのではないだろうか。「私」という存在は同時に「あなた」という存在の裏返しになる。そして必然的に、「あなた」と形容した人物も自らのこと「私」と感じ、「私」のことを「あなた」と呼んでくるだろう。

私が私自身の目の前にいる他者のうちにも「私」を認め、彼をひとりの主体/主観として認めるとき、彼を私は共通の公共的間主観性/間主体性に参入する。これが一切の共同体Gemeinshcaft, communityさらには社会Geselleschaft, societyの前提になる

木村敏 p.22

各個人(あるいは各「私」)は、さまざまに異なる性を謳歌する。私たちは各自のうちに「私」や「自己」もち、そして無数の「あなた」もそれぞれの「私」を持つ。この常識的な感覚を皆が持つからこそ社会や共同体が生まれ、その共同体は同じ時空間に生きていると感じる。

「私」、それはなんと甘美な言葉だろう!だが機械音声が「私」という言葉を使っても、多くの人間はそこに人間性、いや、「生」を見出すことはしないはずだ。何故か、と問われればそれはとても難しい。だが答えずとも我々は知っている。そしてそれはどんな根拠があって「私」が自分を指して「私」と何故言えるのかという疑問に対する答えと同じ性質のものである。

しかしこの世の中には、つまり私がそれを生き、それを経験しているこの世界のうちには、そういった「私」一般、「自己」一般の一特殊例というのとはおよそ存在感覚を異にした、それとはまるで意味の違ったひとつの実感が、(今この文章を書いている)私自身の意識の場所で、なまなましく生きられている

木村敏 p.23

私が生きている、経験している、あるいは存在している「世界そのもの」の強い実感。この「私が私であって私以外ではない」という感覚。これはエリザベート姫がデカルトに放った「もし心身二元論が正いのなら、ある魂は何故他の身体に入り込まずこの身体に入るの?」という素朴な疑問への唯一の回答に違いない。私には「私」という実感があるのだ。それを理論的に説明することはできない。だがどうしようもない強烈な現実を生きるこの命は、他の誰でもなくこの私なのだ。

故に「私個人」というものは、二種類の「私」から成り立っている。

一つは

「各自がそれぞれにそれであるところの公共的な『私』」

木村敏 p.24

であり、もう一つが

「私的な実感としての『私』」

木村敏 p.24

である。先ほど「私」という言葉が発話者によって意味を変えると書いたが、まさにその「発話」、そしてその対となる「理解」が「私」の二面生をよく表す。各人は「私」という単語を発話者自身の「アクチュアル」な感覚との関係において使用され、実感としての「私」という意味合いで単語は使用される。だがその発話者の聞き手が耳にする「私」という言葉は公共的(あるいは客観的)な、「リアル」な「私」という意味においてその単語を受け取る。

故に、

「私」とはアクチュアリティであると同時にリアリティもであるような、そんな一つの現実である

木村敏 p.25

なのである。

我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)と統合失調症(分裂症)

この「私」という実感を普段多くの人々は気にも留めないし考えもしない(あるいはシュッツ的「自然な態度のエポケー」)。だがこれを論理的に証明しようとすると、我々自身のこの実感を反省(疑う)ことをしなければならない。「考える私」は、「私」について反省し続けた結果生まれた概念である。我思う、故に我あり。哲学界隈で「コギト」という概念が現在まで多くの議論を呼び続けているが、このコギトという行為は何もデカルトの特権ではない。

逆に言えば、精神生活の健全さが危機に瀕している精神病や神経症の患者たちにおいては、シュッツのいう「自然な態度のエポケー」が十分に機能せず、むしろデカルト/フッサール的な「懐疑」が病的に肥大して、事故や世界の存在に関する素朴な確信が「成立不全」に落ちいているということである

木村敏 p.27

健康な人は、日常生活の中で自分の実感を疑うことはない。だが精神病を患う人々は自らの実感、ひいては「私」という実感に懐疑的になる。「私」という統一体から逃走を図る欲望機械。ドゥルーズ=ガタリの「分裂症」は何も彼らの生み出した単語ではなかった。それは人々の「私」一つの確信的な実感をも引き裂き、バラバラにしようとする、現在統合失調症と呼ばれるあの現象を表象した精神医学用語であったはずだ。自分の意思とは無関係に、私の実感に「異常」を生じさせ、「私」を解体をしていくのだ。

だが少し待ってほしい。この「実感」を正常と呼べるのはどんなときなのだろうか?統合失調症の患者が「コギト」される以前の「私」という確信的実感とは、どのようなものなのだろうか?どんな大天才であっても、この「実感」を証明することはできないだろう。クオリアのように、私がみている赤を人に証明することはできない。だがこの「実感」を失うという精神医学における症例が、私たちのこの生の実感、あるいは「私」の実感を浮き彫りにするだろう。

離人症と「私」

精神病の中に離人症という症状がある。

離人症の最大の特徴は、患者が周囲の世界や自己の内界を性格に知覚し認識しているにもかかわらず、その「実在感」あるいは「現実感」を感じられないという点にある。だから離人症は、その別名をderealization(実在感喪失症)ともいう

 木村敏 p.58

離人症の患者は社会生活を営むことになんの支障もない。ある時間から何時間経ったかという計算を時計を見ながら行うことはできるし、目の前の花を形容することもできる。だが離人症はそうした日常生活を営めても、その営んでいる「実感」がわからないという。時間の流れる実感が全くない、花を形容できても、その花が美しいことがわからないというのだ。

そして面白いことに、離人症の実感のわからなさは、「自己」にも当てはまる。

多くの離人症患者、とくに内省能力と表現能力にすぐれた患者は、この状態に陥ってから、自己、空間などが全く感じられなくなったと訴える。自己に関しては、自分が自分であることは頭でよくわかっているのに、瞬間瞬間に別々の「私」がばらばらに意識されるだけで、ひとつにまとまった私とか自己とかいうものが消えてしまった、という

木村敏 p.58

離人症の「私」に対する感覚は、「時間」に対する感覚とその本質を共にする。役所などに自分自身の戸籍が登録されているので、「私」が「私」という揺るがない一個人であることよくわかっているしそんなことで自分の個別性を証明するのも常識的に考えて馬鹿げているとわかる。だがその個別的でいる「実感」が伴わず、「私」という統一体から逃れた無数の瞬間瞬間がただ考えられるだけに過ぎない。ここではもちろん役所での戸籍登録や常識が「私」のリアリティ(あるいは「三人称的なリアリティ」)に対応し、実感する「私」のアクチュアリティ(あるいは一人称的なリアリティ)に対応している。言い換えれば離人症の患者は「私について「私」という言葉がその存在を指しているのは知っているが自分のことを「私」でいくら説明しても「私」であることの実感が湧かない」ということにある。

リアリティ/アクチュアリティと禅

このリアリティとアクチュアリティはこう言い換えていいかもしれない。つまりリアリティは「現在完了形」でありアクチュアリティは「現在進行形」と。言語での説明は、常に「相手に伝える」という客観性を帯びると同時に「事物の表象」になってしまう。そして五感で捉えられたものは例外なく、体験したものの後追いになってしまう。この場合言葉での説明は「リアリティ」となるが、例えば痛みを感じて「痛い!」と言った場合、その叫びは痛みの後に叫ばれるので「現在完了形」となる。だが痛みがはじまった瞬間や引いた瞬間の感覚に時差はない。それは「現在進行形」の実感なのだ。もちろん痛みがないときに「痛い!」と叫ぶことも可能だ。だがそれは離人症と似た、いや、むしろ彼らと同じ体験をしているのではないだろうか。「私」の実感はなくても、「私」という言葉が何かということを説明することはできる。我々も「痛み」を感じていなくても嘘をついて「痛い!」ということが可能だし、それを説明することは容易いが、まさにあの痛みのない「痛い!」という叫びが、日常的に離人症の患者においては起こっており、さらには「私」という感覚にそれが適応されてしまっているのだ。

これは禅問答についても同じことが言えるかもしれない。例えば「禅」とは何かと問われたとき、そこでどんなに言葉を尽くしてもその問いからは外れるばかりである。「禅」とは例えば座っていることであるが、このように言葉で説明している時点でもうそれは「禅」ではない。禅とは個人の内的感覚がなければ成立し得ないが、内的感覚についていくら言語を尽くして説明してもその心地よい感覚をそのまま他者に移して体験させることは不可能だ。

この「禅」の感覚は常に「現在進行形」でありアクチュアルなものである。
だが言葉で説明される「禅」は、その内的感覚を説明しようとするほどに客観的なものになり、常にその感覚の後に生じる。それは現在完了形であり常に過去なのだ。

だがアクチュアルとリアルは二項対立的な関係を結ぶ別々の存在ではない。むしろリアルは、アクチュアルという土台がなければ成立し得ない。アクチュアルなものは非常に強力である。それはリアル、つまり客観的なもの変容させる。そうでなければなぜ禅問答には様々な問題があり、様々な回答があるのだろうか。実感は様々な形で発話者の口をついて出る。そしてそれに納得した師が鈴の音が鳴らすとき、初めて「悟り」を得るが、仏教学者秋月龍民も著書「禅仏教とは何か」で記しているように、禅者の体験があるから禅者の言葉があり、その逆では決してないのだ。

終わりに

以上で今回の内容を終えたいのだが、ここで少し思いついたことを書いてみたい。
次の連載でヴァイツゼッカーについて記載するつもりなのだが、ヴァイツゼッカーの「主体性」というはある種「傾向」や「方向づけ」と言ってしまって良いのではないかと思っている。この「主体性」はアクチュアルな「主体」と「生それ自身(あるいは万物全てが生起ー消滅を繰り返す仏教的「空」)」との間の関係性なのではないだろうか。ヴァイツゼッカーはこの「主体性」が「生それ自身」を根拠に「生ている」という、リアルに客観化できないがアクチュアルに「感じている」という状態を指しているのは、個体化を阻みつつもその流れを限定し方向づけを行っている、それが「主体性」なのではないかと勘繰っている。もちろんこれは最近読んでいるホワイトヘッドの「客体化」(存在者が過去のものになり新たな存在者に抱握されるときにその存在者がどのような存在になるのかを方向づけること)とごちゃ混ぜになっているかもしれないが、今日のところはとりあえずここまでにしようと思う。

次は未定です。



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