見出し画像

べてるの家のメールマガジン「ホップステップだうん!」 Vol.217

今号の内容
・巻頭写真 「パパママミーティング」 江連麻紀
・続「技法以前」187 向谷地生良 北海道医療大学 最終講義
「クライエントの場からの出発」前編
・ 年度末総決算!2020年度 販売振り返り
・これからも誤作動(2)「情親(なさおや)プロジェクト」
とっとこ
・福祉職のための<経営学> 079 向谷地宣明 「増殖と循環」
・ ぱぴぷぺぽ通信 すずきゆうこ 「質問タイム」


画像1

パパママミーティング

コロナになるまでは週1でパパママミーティングが行われていました。
パパとママのメンバーとスタッフ、ババとジジも参加しています。
あと、なぜか毎回参加している独身メンバーもいます。

ミーティングでは「よかったこと」、「苦労」をわかちあっています。

メンバーの子どもが結婚するときに「両家の顔合わせにどうやって望むのか」の作戦を立てたり、誕生日やクリスマスプレゼントはどうするか?も一緒に考えます。

写真のように、スタッフもメンバーも子連れで参加しているときは、子どもたちの交流になることも。


(写真・文/江連麻紀)

-------------

新刊『弱さの研究 ー「弱さ」で読み解くコロナの時代ー』

著者 向谷地生良・高橋源一郎・辻信一・糸川昌成・向谷地宣明・べてるの家の人々

画像2

本体価格:1600円+税
出版社:くんぷる

○ご購入はこちら

-------------

続「技法以前」187 向谷地生良

北海道医療大学 最終講義
「クライエントの場からの出発」前編

みなさん、こんにちは。向谷地です。今日は最終講義にお集まりいただきまして、本当にありがとうございます。 またこういう場を、お忙しいなか準備していただいた皆さんにも深く感謝いたします。

早いもので、北海道医療大学にお世話になって今年で18年が経ち、定年退職の日を迎えたんですけども、私にしてみると1978年に大学を卒業してから現在までずっとソーシャルワーカーとして、私なりの「フィールドリサーチ」を43年実践してきた中でのひとつの「中間地点」だと思っていますが、これまでお世話になった皆さんに対する感謝とこれからに向けての挨拶の機会としてこの場を持たせていただければと思っております。

さて、実は今回の最終講義の「裏のチラシ」というのがありまして、「向谷地は本当に来るのか?」というキーワードが書かれてたんですけど、この最終講義を準備された方々の脳裏に浮かんだ最初の“お客さん”が「本当に来るのか?」だったと思うんです。それも当然だと思うんですね。何故なら、私の「自己病名」は、「先天性忘れ物症候群あきらめタイプ」ですし、今日現在の私のメールアドレスの未読件数が2万7千件なんですね。サブの自己病名が「メール未読症候群あきらめタイプ」ですから、今日もどこかで、誰かにご迷惑とかけ続けているわけです。そんな中で、チラシができて間もなく実は先週一週間入院するというアクシデントに見舞われて、簡単な手術でしたけども、はじめて全身麻酔でお腹の手術をしました。3日前までは、入院していたってこともありまして、傷口をかばうように背中を丸めて廊下を静々と歩いていたんですけど、まあやっと少し傷の張りも取れて、今日も少し喉の方も落ち着いてきて話せるようになったところです。

話は「脱線」しますが、不思議なもので、毎年べてるでは「今年の一字」ってのを決めるんですけど、「向谷地さん今年の一字は何ですか?」って担当のスタッフに聴かれた時に私は「脱」って言ったんですね。いわゆるいろんな既成の概念から、今までの発想から抜け出て、脱出していく。エクソダスです。そしたら、体の調子が悪いなって病院行ったら「腸壁ヘルニア-“脱”腸です」って言われて、あっ「脱」はそこにつながったのかということで。これまた変なオチでですね。

それからもう一つ忘れられないのがですね、ちょっと前にあるメンバーさんが「解離」を起こして路上で倒れてしまって動けなったことがありまして。非常に体格のいい方だったんですけど、その方を持ち上げようとしたらですね、腰から背中にかけて布を引き裂くような体感と激痛が走りまして。これは何だっていうことで私はしばらく腰痛のコルセットをしていたんですが、病院を受診したらですね、なんと「大動脈の急性解離」だったんですね。まさに九死に一生を得た感じです。「解離」で倒れたメンバーさんを抱き上げた時に、たまたま血圧が高かったんだと思います。そこで「解離」が起きちゃった。これはまた起きてる現実と身体が連結するっていう不思議な経験ですね。これもまた面白いですね。それ以来、2キロ以上の重さを持ってはだめですとか、走っちゃダメですとか、夜更かししちゃダメですとか、安静に暮らしてくださいって言われながらながら、札幌で18年に及ぶ単身生活、それもほとんどキャンプ生活のような不摂生な生活をしています。
これでも、こうして今まで生きてこれたということで、多くのみなさんに支えられて、今日まで来れたって本当に感謝だなというふうに思っています。

そういうこともありまして、私は入院する直前に万が一のためと録画を撮ったんですね。今回は、この43年間一緒に苦楽を共にした佐々木実さん(浦河ベてるの家理事長)や、早坂潔さん(浦河ベてるの家代表)メンバーさん達がここで一緒に登壇できればいいなと思ったんですけども、こんなコロナ禍ということもありまして、最初は、お二人と動画で少しべてるの活動紹介、歩みも含めて、お話をさせていただきます。

-録画部分-
<向谷地>
今日は、私の最終講義にお越しいただきましてありがとうございました。思えば1978年の4月に浦河赤十字病院のソーシャルワーカーとしてのスタートを切ってですね、北海道医療大学には2003年4月からお世話になりまして、今年で18年になるわけですけども。早いもので、この3月でとりあえずリタイアということで、4月からは新しいスタイルでですね、またこの領域でお仕事をしていきたいと思っています。

今回はですね、この間の実践報告と私なりのこれからの新しいチャレンジ課題をみなさんにお示ししてですね、一応区切りをつけたいと思ってこの場を活用させていただきます。
今日はべてるの家からこの場を借りてお話をさせて頂いておりますけど、この43年の歩みを共に歩んだ仲間の現社会福祉法人べてるの理事長をされている佐々木実さんと、一緒に起業しようという、金儲けしようということで今から37年前に一緒に昆布の産直に取り組んだ早坂潔さんがですね、冒頭の挨拶を兼ねて来て頂いております。宜しくお願い致します。

<佐々木実>
佐々木実です。向谷地さんとは50年近くのお付き合いでお世話になっていました。僕の退院の時に、向谷地さんと仲間何人か交えて、焼肉店で食事したのが最初だったと思います。

画像3

<向谷地>
そうですね。懐かしいですね。ちょうど7年間の入院生活をしていた佐々木さんなんですけども、私が写真にあるように1978年4月に赴任して一番最初に頼まれたのが、佐々木さんの退院のお手伝いだったんですね。佐々木さんはどんな入院生活をされていたかちょっと紹介していただけますか。

画像4

<佐々木実>
若くして27歳くらいで入院したんですけど。その頃はあの精神科に入院するってことはすごく大変な時期で、差別に偏見とかあったんですけど。7年間入院して退院の支援をしてくれたのが隣にいる向谷地さんです。

<向谷地>
画面には昔の精神科病棟が写ってるかと思うんですが、1959年(昭和34年)に日高管内で最初に開設された精神科病棟なんですが、佐々木さんが通われていた浦河高校の道路を隔てた目の前にあったんですよね。

画像5

<佐々木実>
そうですね、はい。

<向谷地>
本当に道路一本挟んで、高校時代にあの鉄格子の向こうでお世話になるなんて想像もしなかった。

画像6

<佐々木実>
そうですね。記憶なかったんですけど、入ってみてすごいところだなと思って。今思えば懐かしく思い出されます。

<向谷地>
そうですね。私はこの建物の一階の一番端の部屋がスタッフルームだったんですけども、ここでワーカーとしての仕事をはじめました。私は学生時代にはこの精神保健福祉分野の勉強をしてきたわけではなくて、学生時代はずっと難病患者運動の中に身を置いていて、この当事者運動の中で私は育てられたという気がします。そういう私がですね、縁あって浦河に就職が決まった時にですね、お世話になった恩師の今は亡き松井二郎先生ですね。「向谷地君、是非これだけは読んでおいた方がいいぞ」って先生の行きつけのスナックで手渡されたのが、このR.D.レインの『引き裂かれた自己』(みすず書房)でした。
私はこのレインがいかなる人物なのか、この本がどんな意味を持つのかってことは全く分からないままに先生からこの本を頂いてその時に先生からサインをいただいたんです。今でもこれとても大事にしているんですね。それで私は札幌から浦河に行くまで列車、急行えりもに揺られて、この本を読みながら浦河に向かったのが43年前の一コマですね。

画像7

札幌から浦河までは非常に遠く感じましたね。レインはいわゆる反精神医学の旗手と言われていて、イギリスではじまったひとつの精神医療改革運動の立役者だったわけですね。
1978年当時ですから、70年代〜90年代というのは、脳科学がとても進歩して、精神疾患や統合失調症もいわゆる「脳病」という立場から、精神医学も必死になって「普通の医学」になろうとしていた時代だったと思います。普通の病気として、薬物療法や直接的な治療を施すことによって回復すると。そのような非常にわかりやすい医学的な治療モデルが確立することによっていろんな誤解や偏見もなくなるのではないかという、そういう期待が当事者や家族も含めて時代の空気としてあった気がします。
そのような中でレインは、むしろ人間の「苦悩」に焦点を当てて、統合失調症というものに対して、人間としての眼差しや、人の生きにくさや存在、そしてその生きにくさに影響を与える環境、人のつながりや社会の在り方について問題提起をしたというふうに私は思っています。レインは、本の中で、「精神疾患は私たちの思っているほどそんなに複雑で難しいものではないのかもしれない」と述べています。それを難しくしてるのはむしろ周りの環境や社会の側にあるのではないか、という問いかけが書かれているわけですね。それを読みふけりながら浦河に着いたっていうのが今も懐かしく思い出されます。

私が浦河に赴いた頃は、精神疾患は他人に危害を及ぼす恐れのあるものであるから、その社会不安を積極的に除去する必要がある。そのためには、できるだけ長く入院させる必要があること、そのためには家族の経済的な負担を軽減するために、自傷他害の恐れがある場合に適用される「措置入院」と言う強制入院を拡大解釈して適用(経済措置)させて公費負担にするというやり方で、周囲が安心して入院できるような環境を整えるということがまかり通っていました。
私がその精神科病棟に勤めて最初に思ったのは、精神医学は囲い込みの「囲学」であって、福祉は服従の「服」、精神看護というのは管理の「管」だということです。この三つの要素が、この精神医療という構造を下支えしているという問題意識を持つに至ったわけですね。
日高管内の最初のソーシャルワーカーとして私が感じた、囲い込んで、管理して、服従させるというこの構造に問題意識を持った私は、ちょうど1年目に看護部から看護師向けに「ソーシャルワーカーの役割について話してほしい」と頼まれて話をする機会を得た時に、生意気にもこの三つの構造の話しをしたような気がします。

画像8

もし私がこの精神科病棟の患者だったら、回復する自信がない。私だったら、この治療の中に最も乗らないというか、乗り切れない、言うことを聞かない患者さんになる自信があったわけですね。
例えば病棟のすぐ隣に今も生協があるんですけども、生協に買い物に行くにも数日前に外出許可を出さないといけない。その日に急に外出するというのは非常に難しい。それをかいくぐって入院患者さん達はみんなこっそりと買い物に行く。そうするとペナルティがあるという状況だった。そのことに私は問題意識をすごく感じたわけです。もちろんそういう構造の中でもスタッフたちも一生懸命やっていた。非常にアットホームな病棟だったと思います。特に看護スタッフ達はですね。当時精神科病棟というのは治療から、家族関係の調整から、社会復帰から就労支援まで全部病棟がやっていた。今でいう総合支援法も何もない時代だったわけですが、地域精神医療の展開をめざして、実に先進的なアプローチを本当によくやっていたと思います。
ちょっと佐々木さんにちょっとお話を伺ってみたいと思うんですけども、佐々木さんは病棟に入院しながら作業療法という名の地域の事業所に通ってましたね。

<佐々木実>
そうですね。入院しながらパン屋さんに通っていました。

<向谷地>
通ってましたよね。それからあと板金屋さんもありましたね。

<佐々木実>
ああ板金。車の板金塗装ですね。

<向谷地>
だから私は今思えば、入院中の患者さんが地域の事業所に通って仕事ができるっていうシステムは、ある意味ではすごいなって思いますね。今では制度的に難しいんですけど、当時はそれが可能だったということで、それを先駆的だなと思ってるいんですけど。その中で佐々木さんは病棟から弁当を持って行ってましたよね。当時の病棟で何か思い出ありますか?

<佐々木実>
そうですね。働きに行って、パンを帰りにもらってくるのが楽しみで行ってましたね。あと弁当を食べるのを楽しみで。

<向谷地> そういう意味では病院には寝るために戻ってくるような生活でしたね。

<佐々木実>
そうですね、はい。

<向谷地>
日中は外で働いて、夜病院に寝るために戻ってくる。いわゆるナイトホスピタルをやっていたわけですね。それも私は今でもむしろやってもいいんじゃないかっていうぐらいのシステムだったですね。
病院という場の中での回復じゃなくて、むしろ地域の中での回復って。当時浦河では精神科の先生方も仲間づくりに一生懸命でしたよね。回復者クラブに一生懸命だったと思います。
これは1979年ですから、佐々木さん達と一緒に隣町のキャンプ場で、交流活動をした時のスライドですね。この真ん中にいる同じこのジャンバーを着ているのが私ですね。懐かしいですけどもこんな形で活動をていました。
浦河は依存症の人たちがとても多いものですから、依存症の経験した人達とそして統合失調症を経験した人たちと、それから浦河は先住民であるアイヌの人たちが町民の3割ぐらいいらっしゃると言われているんですけども、このアイヌの人たちが何世代にもわたって依存症と貧困の連鎖を繰り返していましたので、親が依存症を抱える家庭の中で育っている子供たちと子供会活動をはじめまして、「ノンノ学校」というですね土曜学校をやっていました。
ですから浦河というのはこの統合失調症とか精神疾患を持つ若者たちと、依存症を抱える人たちと、そしてそこにはもう一つ先住民のアイヌの人たちの抱える負わされた苦労という、この大きな三つの苦労をテーマに私たちの活動がはじまったわけですね。

それを考える時に重要だったのは、学生時代にさまざまな当事者活動、運動に関わる中で、言われたことがない「当事者と距離を取る」という現場の発想でした。これは、メンタルヘルスの歴史、現状を考える上で、とても大切なキーワードだと感じました。特に、「住んで居る場所、電話番号を知られないように」というこころある人たちの助言から、この世界が抱えている根源的な課題を感じ、私はあえて、住所、電話番号を入れた名刺をつくって配りました。
そればかりではありません。このテーマをどうやって担っていくかという試行錯誤の中で、私は1979年に浦河の町内の一角にある古い教会堂を借りて、回復者クラブのメンバー有志と一緒に暮らしはじめました。 思いとしては、ソーシャルワークの一つの歴史の最初のスタートが、イギリスの産業革命の時代にロンドンの東のエリアに広がるスラムの中に当時の若者たちが自ら入り込んで、その生活困難を抱える人たちと一緒に寝食を共にするなかで、この課題の意味を共に模索するところからはじまったと言われているわけですね。いわゆるセツラー(移住者)としての実践スタイルは、私が学生時代に学んだ基本的なソーシャルワーカーのイメージなわけです。私はこの先輩たちの基本スタイルを自分で試してみたいと思い精神科に入退院を繰り返す経験をしていた回復者クラブの若者たちに一緒に住みませんかと声をかけてはじまったわけですね。特別何をするわけでもないんですけども、一緒に暮らし、同じ屋根の下で交わるということをしていたわけですね。そこに佐々木さんも一緒にいたということですね。佐々木さん何か思い出ありますか?

画像10

<佐々木実>
そうですね。風呂に行くのを節約して、早坂潔さんと雨の中で風呂代わりに体を洗って、そんなのがなんか懐かしく思い出されますね。

<向谷地>
そうですね。いま早坂潔さんの名前が出ましたけど、この活動をはじめたときに私たちは自分たちで何か仕事を起こしたいと。仕事の現場で様々な行き詰まりや病気になったりという経験をした佐々木さんをはじめ、みんなと何か自分たちなりに働きやすい場がつくれないか、それをはじめたのが1983年だったんですけども、そこに私たちに与えられた一人のメンバーが早坂潔さんだったんです。潔さんお待たせしました。

<早坂潔>
思い出すことがいっぱいあって、僕は中学生(1970年)の時に最初の浦河日赤第7病棟に入りました。その時、佐々木さんも入院していて僕を見たっていうのが、昭和45年だから、ちょうど去年ぐらいで病気をして50年になりました。

<向谷地>
そっか。中学生の頃に入院したての佐々木実さんと潔さんは会ってるんだ。

<向谷地>
その時の思い出をちょっと。

<佐々木実>
そうですね。院内の7階にあった喫茶店の階段を下りてくるのを見て、あーあれが早坂潔さんだなってうすうす覚えています。それからもう50年近くのつき合いで、同じ釜の飯を食ってきたんで。

<早坂潔>
ハハハ。大変、佐々木さんにはお世話になって。

<佐々木実>
お互いに喧嘩もひとつしないで喋ってきました。

<向谷地>
50年前。まだ潔さんが中学生の頃。

<早坂潔>
15歳ぐらい。病棟に入った時に、部屋に入ったら鉄格子があって、中学生の時にもう人生終わりだなって。絶望って言うか、人生終わりだなって思ったんですよね。

<向谷地>
なかなか中学生で精神科に入院する人ってそんなに多くないからね。

<早坂潔>
結局ね、眠れなくなってね。見えないものが見えたり、イカの足が走ったり、それから赤いものが見えたり、警察っていうのがもうピンと来ておかしくなっちゃってね。

<向谷地>
潔さんって、なんかあると具合悪くなった時は警察とか、おっかないおっかないっていう状態になるよね。

<早坂潔>
最初見たときは向谷地さんおっかなかったもん。

<向谷地>
ハハハ。

<早坂潔> おっかないから大声を出したり、手をあげたりするんじゃないかなと今は思うんだけどね。

<向谷地>
その潔さんと金儲けしないかっていう、そのひと声で、潔さんも金儲けしたいっていうことで私たちはこの活動をはじめるんですけども。この写真はまだ下請け時代ですね。

画像9

<早坂潔>
3分しかもたない、煙草ばっかり吸ってる時代ですね。

<向谷地>
あだ名が「ウルトラマン」っていう。3分経つと「シュワッ」と飛んでどっかいなくなってしまうというですね。

<早坂潔>
僕もね、浦河赤十字病院第7病棟の思い出はいっぱいあるんですよね。役場の隣に消防署あるでしょ。あそこね、当時いた仲間と二人で作業行ったんですよね。カゲヤマ建設。まあ話を戻して、べてるに来たのが1983年4月9日。今のべてるの家に。そして宮島美智子さんが「潔さんもできる仕事をしよう」と言って、はじめたのが昆布の下請けだったんですよね。
その時は僕は朝9時から3時ぐらいまでやるんですけど、あと5分ぐらいしたら休憩するから、そしたら好きなタバコでも吸った方がいいよって言われたんだけど。もたなくてもたなくて、そういうことがありました。
この時ちょうど向谷地さんが朝9時頃に、赤いジャンバー着て、来てました。べてるは、そんなこんなではじまりました。

(つづく)

向谷地生良(むかいやち・いくよし)
1978年から北海道・浦河でソーシャルワーカーとして活動。1984年に佐々木実さんや早坂潔さん等と共にべてるの家の設立に関わった。浦河赤十字病院勤務を経て、現在は北海道医療大学で教鞭もとっている。著書に『技法以前』(医学書院)、ほか多数。新刊『べてるの家から吹く風 増補改訂版』(いのちのことば社)、『増補版 安心して絶望できる人生』(一麦社)が発売中。

-------------

年度末総決算!2020年度 販売振り返り

年度末なので、一年間の事業の振り返りと報告が行われました。
新型コロナで見学者対応や講演会などでの出張販売がほとんどできなかった年でしたが、様々な工夫も凝らした一年でもありました。

画像11

画像12

画像13

画像14

画像15

画像16

画像17

画像18

画像19

画像20

画像21

2021年度もよろしくお願いいたします!

○ べてる商品は「べてすストア」でお買い求めできます


ここから先は

7,606字 / 4画像

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?