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手話歌に関するモヤモヤ

最近は手話歌を使うグループなどが徐々に増えてきています。日本手話という主にろう者(聴覚障害者の中で手話を使う人のことを指すことが多い)というマイノリティが使用している言語の存在を広く知っていただく良い機会になっていると思います。手話歌は新しい音楽ジャンルを確立しつつあるように思います。でもなんだかモヤモヤするものがあります。(詳細は後述)

自分のことになりますが、私自身は、飛行機の音がやっと聞こえるレベルで、補聴器を使用しても、何か音がしているということが分かる程度です。それ故、音楽は、リズム感覚も音感も全くなく、苦手意識が払拭できない科目でした。ただ、自分なりに楽しめる方法はないかと模索して、音楽教室へ通って、アルトサックスを習ったりしました。補聴器も性能の良いものを購入して、色々な音楽を聞くなりトライしてみたりしました。ただ、納得できる楽しみ方がまだ分かっていなく、今も色々模索中です。そんなわけで、音楽に対して、遠巻きに接している状態です。

手話歌グループメンバの炎上事件

そんな時に、サインダンスグループ『オイカゼ』のメンバーの強力翔さんが、2/24にTwitter(短文投稿型のSNS)にて、「手話を広めるためには魅力的な人にならないとね」というTweet(Twitter上での投稿単位(140文字))をしたため、手話話者(手話を使って話す人のこと)であるろう者からの批判が相次ぎ、炎上状態になりました。このTweetでは、主語が抜けていたため、手話話者であるろう者を蔑視したと受け止められたのが主な原因でした。

ご本人は「言い方がすごく直接的で言葉足らずだった」と謝罪しています。言葉足らずは人なら誰でも一度や二度はしてしまう失敗だと思いますが、今回のケースは、少なくとも手話話者のことをきちんと理解していて、伝わるようにしていれば、防げたと思います。手話話者のことを念頭において、発言しているかどうかというところが透けて見えると思います。

この炎上事件をきっかけに、手話歌に対するモヤモヤは何だろうかと自分なりにまとめてみました。ポイントは3点あります。

ポイント1:違うコンテクスト・文化が混沌としている

手話話者であるろう者は、ローコンテクストなコミュニケーション方法を好みます。表現がストレートであり、主語を明確にした表現を多く行なっています。このような文化はろう文化の一部です。その一方で、聴者は曖昧な表現を好み、雰囲気を察するということが多くあります。

例えば、手話教室でも日本語を母語とする聴者が日本手話で曖昧な(ハイコンテクストな)表現をして、ろう講師がよくわからないと指摘することがあります。英語などでも同じことが起こります。逆に、外国から来た人で日本語が話せる人でも、日本人のハイコンテクストな話し方では主語が判らず困る人もいます。

手話歌も同じように違うコンテクストや文化が混沌としていて、人によっては好意的な受け止め方をする人もいれば、違和感をもつ人もいるといった「受け取り方の違い」が生じています。

このような訳で、手話を日本語にあてはめた手話歌に違和感をもつろう者は少なからずいます。逆に、手話歌を楽しんでいるろう者や、日本手話で手話歌を表現するろう者もいたりと多様です。例えば、「聾者(ろう者)の音楽」を視覚的に表現したアート・ドキュメンタリーとして音楽映画「LISTEN リッスン」もあります。NPOインフォメーションギャップバスターでは2016/4/16に『LISTEN リッスン』の監督の牧原依里さんと雫境(DAKEI)さんをゲストにお招きし、聞き手として「美しいこと」とは何かを追究する理論体系である美学が専門である伊藤亜紗さんにご登壇いただいたイベントを行いました。以下はその時のトークの一部です。

伊藤亜紗:今、ダンスと歌の違いの話が出ました。雫境さんの話では、ダンスではなく歌になるときには、言葉の要素が加わるとのことでした。そのあたり、牧原さんはどのように考えますか?

牧原依里:私の個人的な見方ですが、今回の映画の出演者を視て、この人は歌だな、この人は踊りになるな……と感じていました。「音楽」というと、曲と歌詞が組み合わさるものが「歌」、歌詞がないものが単に「音楽」と一般的には言われています。『LISTEN リッスン』の場合、「歌」も含めてすべてのものが「音楽」なのだと思います。「これは歌を表現しているのですか?」と言われると、(括弧付きの)「歌」「音楽」どちらとも言えるというのがあって、自分の中ではまだ混沌としている感じです。聴者の歌と聾者の歌は同じかというと、言葉は同じですが、見方、捉え方はずいぶん異なっているかもしれません。

『LISTEN リッスン』は視覚に特化した作品ということで、観た後、様々なシーンが頭の中でリフレインするという心地よい余韻が残りました。前述したように、音楽を十分に理解することはできないのですが、おそらく、聴者(聞こえる人)が音楽を聴いた後に残る余韻にも通じるものがあるのではないかと思います。

しかし、手話歌の場合は、言語が入ってくるので、言語的な問題が絡んできます。日本語と日本手話は文法体系や音韻が異なる言語なので、手話歌にどちらの言語が強く出るかによって、受け手の違和感が変わって来ます。

手話歌がモヤモヤするのは、恐らく文法がまったく異なる2つの言語(そして文化も)や使い手のコンテキストが衝突した形になってしまう形になるからで、そのため、受け手としては混乱してしまったり、変な誤解を与えてしまったりという面もあると思います。

例えば、英語の単語を日本語の語順に並べて歌っても、それは英語の歌ではありません。それと同じことが手話歌では起こっています。おそらく、そのような歌を英語の母語話者が聴いても何を言っているのかわからないと思います。そこには英語の文法構造がないからです。手話歌の問題はそこにあるのではないでしょうか。

ポイント2:音声言語と対等な日本手話の理解・普及を阻害する

国際的な条約(障害者権利条約)では、「言語とは、音声言語及び手話、その他の形態の非音声言語を言う」と定義されています。それに伴って、日本でも手話は音声言語と対等な言語であることの“理解と普及”が必要となっています。そのため、2つの言語境界が曖昧な手話歌は、理解・普及の障壁となっています

実は、今の日本には言語法(国家が領土内で用いられる言語の地位や使用に関して規定する法律)がありません。外国では多言語が存在しているため、言語法を定めている国は多く存在しています。しかし、日本は国のシステムが単一言語を前提としたものとなっており、言語法の必要性を認識してもらうには時間がかかりそうです。実は、日本人が使用する言語には日本語以外にもいくつかあり、多言語が存在していますが、マイノリティのため、なかなか理解が進んでいないのが現状です。

このような背景もあり、手話歌は手話を普及するための良いキッカケとはなり得るメリットがありますが、逆に音声言語との違いが分かりにくくなり理解を阻害するというデメリットもあります。

ポイント3:文化の盗用の可能性がある

「文化の盗用」の1つの例として、「着物」という言葉の盗用があります。ファッション界でアメリカの著名セレブであるキム・カーダシアンがキモノとよばれる下着ブランドを発表しました。界隈で文化の盗用と話題にキムはのちに「敬意を払っている」と謝罪しましたが、敬意を持っていようといなかろうと、その行為が文化的コンテクストを尊重したものであるかという論点こそが重要です。

ある文化圏の要素を他の文化圏の者が流用する行為である。少数民族など社会的少数者の文化に対して行った場合、論争の的になりやすい。流用の対象となる文化的要素としては宗教および文化の伝統、ファッション、シンボル、言語、音楽が含まれる。(Wikipediaより)

手話歌が聴者(聞こえる者)が行う場合は、「文化の盗用」の可能性があることはこれまでも何度か指摘されています。

手話という言語とともに生きる人たちの尊厳と権利を顧みることなく、表層的な利便性だけをかすめ取ってきた事実がいくつかあるそうです。詳細はここでは言及しませんが、その事実を知っておいて欲しいです。

手話歌は単純な問題ではなさそうですね。私自身は、手話歌を否定するつもりはなく、また、手話を使用して歌っている人を批判するつもりは全くありません。ただ、その過程において、手話話者であるろう者をリスペクトしているかどうかというところを重視したいです。立場を尊重し、不快な感じを与えないように配慮することは、最低限必要なことです。

※ 本記事は、Twitterでのやりとりを踏まえてまとめさせていただきました。下記の関係者をはじめ多くの方から大変貴重な示唆をいただきました。ここにて御礼を申し上げます。
・東京国際大学教授 杉本 篤史様
・ハーバード大学ポスドク/フレーミングハム州立大学准教授 富田 望様

貴重なご意見を頂いた富田望さんが後日、一連のTweetを交えて、自らの考察をまとめた記事をブログに公開しています。こちらも合わせてご覧いただければ、より理解が深まると思います。是非ともご覧ください。(2021/3/17追記)

ちなみに、ハイ/ロー・コンテクスト文化について、国民や文化の分類をすることについて懐疑的な立場を取っておられる方もおられます。ご参考までに、記事をシェアしておきます。


あらゆる人が楽しくコミュニケーションできる世の中となりますように!