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女風料理人リウ、恥ずかしながら童貞です 第一話 クレオパトラの夢 5

 ランチを終えて皿とグラスを洗っているとスマホが鳴った。ミカからの電話だった。

 「久しぶり、もう別荘に着いている?」
 弾んだミカの声が耳に飛び込んできた。
 「朝9時頃に着いて、午前中はずっと掃除をしていたよ。今軽いランチを食べ終えて、午後も掃除を続ける予定だよ」
 「えらいわねぇ、一人で一軒家を掃除するって大変でしょ?別荘って行くのはいいんだけど、着いてすぐ掃除しないといけないのが面倒で行かなくなるのよ」
 なるほどミカの言う通りなのかもしれない。旅行に行ってホテルにチェックインして、部屋に入ったら埃だらけで、自ら掃除をしなくちゃいけないなんて論外だ。しかも一軒家まるごとの掃除はホテルの一室を掃除するのと訳がちがう。午後から拭き掃除が待っている。できることならやりたくはない。
 「しかし凄い別荘だね、県道からの坂道にビックリして、チューダー朝の建物にさらにビックリしたよ。不動産の価値なんてわからないけど、億はしそうだね」
 「まぁ、そのくらいはするかもね、私は相続しただけだから、詳しくはわからないんだけど、固定資産税はかなり取られてるわね」
 「そうなんだ、あと気になったのが、カトラリーが変色してる。せっかくのクリストフルの銀メッキが、化学変化を起こして茶色っぽくなってるから、綺麗にするつもりだよ」
 「本当?やってくれるとありがたいわ。銀の食器って毎日使わないと変色しちゃうからね。やっぱりあんまり別荘向きじゃないかも。もし綺麗にしてくれるならうれしいわ。銀色に輝くクリストフルのカトラリーで、あなたの作ったディナーを食べる日が待ちきれないわね」
 「任せておいて、で、いつ来るの?」
 「そっちこそ、いつから始めるの?」
 「4月からは始めたいよ。でも、ここまで来れないお客さんも多いだろうから、行ったり来たりの生活がしばらく続きそうだね」
  「そっか、頑張って」
 「でも一番最初のお客さんはミカじゃないとね、もちろん無料ですべての施術と料理を楽しんでもらうことになるけど」
 「ほんとに、なるべく早く時間を作るつもりだけど、もう始めちゃってもいいわよ、そこは任せるわ」
 「ありがとう、助かるよ」
 「ガレージに私の車が置いてあるから使ってもいいわよ、お客様を駅に迎えに行くのにボロボロのプジョーじゃカッコつかないでしょ?バッテリーが上がってるかもしれないけど、ちゃんと車検はまだあるし、保険もはいってるから大丈夫よ」
 「わかったよ、遠慮なくお借りいたします」
 「それじゃ、そちらに行ける日がわかったら連絡するわ。何かわからないことがあったら何でも言ってね」


 そう言ってミカは電話を切った。部屋に静寂が戻った。床の濡れ拭きを始めようかと思ったが、一旦仕事モードから途切れてしまった身体は簡単には元に戻らなかった。満腹感のお腹をさすりながら、皮張りのソファーの感触をしばらく楽しんでいたが、興味深い物があったのを思い出して、シンクの上に取り付けられたの棚を開いた。ガランとした空っぽの棚の中に、忘れさられたような艶消しの黒い物体が一つ置いてあった。
 「これって手動のコーヒーミルだよな」
 ちょっと奥にしまってあるのを引っ張り出した。手に取るとずっしりと重量がある。光の当たり具合でグレーにも黒にも見える艶消しの鋳物で作られた手動のコーヒーミルは、30センチほどの大きさで、「スタバ」とか「ラテ」というカタカナよりも「純喫茶」とか「珈琲」とか漢字の世界観がピッタリで、昭和レトロの雰囲気がプンプンしている。キッチンとリビングのあいだに作られた二人がけのカウンターテーブルにこのコーヒーミルを置いてぼくは腕組をした。

 「これを回してコーヒー豆を挽く訳ね」
 僕は直径20センチ程もあるハンドルを上から下に回すと、思いのほか軽く回転して気持ちいい。小型のコーヒーミルは見たことがあるが、それらはすべてハンドルがミルの上部に着いていて横に回すタイプで、こんな大きなハンドルを縦方向に回すのは珍しい。

 「で、ここに豆を入れればいいんだな」
 一番上にあるドーム型の部分の上半分を開いて中を覗くと、真下にコーヒー豆を砕く刃が光っていた。これがハンドルで回転されてコーヒー豆から粉に粉砕されるのだろう。フタの上半分は挽く際にかぶせてコーヒー豆が飛び散るのを防ぐために閉めるのだろう。横についているダイヤルはコーヒー豆の細度を決めるのに使う訳ね・・・。このコーヒーミルの概略がつかめてきた。コーヒー豆はないものかと探していたら、冷凍庫にUCCの文字が描かれた袋を発見した。

 「さすがにコーヒー豆は賞味期限切れか・・・」
 案の定、冷凍庫の中にあったコーヒー豆の賞味期限は6か月ほど過ぎていた。ま、香りがちょっと飛んでるかもしれないが、飲めないことはないだろう。引き出しを探していたらドリッパー、ペーパーフィルターとキッチンスケールを発見した。ネットで挽き方を探して、挽いた豆が中引きになるようにダイヤルを調整して、少量の豆の量を量ってミルに入れてハンドルを回してみた。ゴリゴリガリガリと鈍い音がして、固い物が削れていく感覚が手に伝わる。テスト用に少量を入れただけなので、すぐに手の感覚も耳障りな音も消えて、すぐハンドルは空回りしはじめた。木製の受け皿を引きだして、粉の挽き具合を確かめたが、これが本当に中引きなのかよくわからない。ま、こんなもんだろうと覚悟をきめて、豆を計量して挽き始めると、思ったより時間がかかるのがわかったが、手に伝わる感覚やダイレクトに耳に届く音が新鮮で悪くない。マグカップの上にドリッパーとフィルターを設置して挽いた豆をさらさらと流し込む。沸かしておいたお湯を注ぎ込んだら、香ばしい香りが漂って、部屋の空気に立体感が生まれた。一口飲んでみたら、思ったほど美味しくはなかったが、不味くもなかった。ま、初めての経験、最初の一杯なんてそんなもんだろうと自分に言い聞かせて、しばらくぼっと時間を潰した。
 


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