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キッシュが冷たくなるまえに 第73話 愚か者の酒場

  「どうだい久しぶりのマティーニは。好みの味になってるかな?」
 「もちろん、でもどうしたの吾郎君、わざわざ聞くまでもないことを聞いて」
 吾郎君は、僕が一口含んだ時の顔色で僕が喜んでるのがわかっているはずなのに、わざわざ感想を聞いてくる。

 「単純に、君からのお褒めの言葉がほしかっただけよ」
 吾郎君は苦笑いをして、優雅に前髪をかきあげた。
 「最近どう、変わったことない?」
 ベルモットのビンをバックバーに戻しながら吾郎君は言った。最近起きた変わったこと?あるにはあるのだが、言うかどうか迷っている。だんだん胃袋が熱くなってきて、マティーニが早速効いて酔い始めてきたようだ。吾郎君は静かに僕が何かを語るのを待っているようだ。僕の表情に、言いたくても言えないことがあるのを見抜いて、わざわざマティーニの味なんか聞いて言いやすい雰囲気をつくっているのかもしれない。

 「最近飲食店の手伝いをし始めたんだ。ここからちょっと外れたところにあるミカエルってカフェがあるでしょ?」
 「お、ミカさんのところね、わかるよ。時々一人でプラっと入ってきて、2,3杯飲んで帰っていくよ、で?」
 「ミカさんの長女がキッチンを担当していたんだけど、交通事故でしばらくキッチンに立てないので、週末だけキッシュを作って届けることになったんだ」
 「まぁ、君はフレンチやってたから、楽勝にできるでしょ?」
 「うん、まあね。そしたらさ、そのお礼もかねてというか、ソムリエを目指している店員の子と家の姉を連れて、最近できたフレンチに行って勉強がてら食事をして来いって話になったんだよ」
 「その最近出来た店って、もしかしてイケメンのシェフがやってて、女性客だらけの店?名前は忘れたけど」
 「するどい、その通り。NAGITOって店ね」
 「まぁ最近できたフレンチなんて一軒しかないからね、すぐわかるよ。うちのお客さんでも結構いってる。いろいろ噂話は聞いてるけどね・・・」
 吾郎君は思わせぶりにそう言って、含み笑いをした。
 「実はミカさんの店も、NAGITOに常連客をけっこう取られちゃってさ、敵の状況を探るべく、僕達は遣わされたのさNAGITOに」
 「へぇ、ミカさんのところの常連がイケメンの店に大移動しちゃったの?さもありなんだな。そのイケメン君の女絡みの噂をよく聞くよ。具体的には言わないけどさ・・・」
 吾郎君は冷たい水の入ったグラスをそっとカウンターに置いた。

 「そうなんだ・・・。実はソムリエの卵の女の子をちょっといいなと思っていて、その子とNAGITOに行ったらさ、そのイケメンシェフが、なんと」
 
 「その店のシェフが、僕の専門学校のときの同級生で、パリでルームシェアをしていた奴だったんだ」
 「ほんと?、そんなことってあるんだね」

 「こちらはシェフを挫折して旅行代理店に勤めているけど、同期でルームメイトだった奴が、もうシェフやってるのがさ、結構堪えたりする訳よ」
 「しかも帰り間際のトイレに行った短い間に、シェフが彼女と連絡先を交換したらしくて、どうやらもう彼女は食べられちゃったみたいなんだ・・・」
 僕はそう言い終わると深いため息をついた。そして残りのマティーニを飲み干すと、キレのあるジンの鋭い味が、ナイフを飲みこむように喉元をつらぬいてゆく。
 「ミイラ取りがミイラになっちゃったんだ。マティーニをあおりたくなる気持ち、よくわかるよ」
 吾郎君は頷きながら空になったカクテルグラスをかたずけ始めた。
 「で、ミカさんが料理のテコ入れをして客離れをなんとか防ぎたいって言って、ぜひ僕にメニュー作りから参加してくれって、ここ一週間ほどその彼女と二人でメニューの試作をやってたんだよ」
 僕は事の顛末を話終えてグラスの水を一気に飲み干した。
 「針のむしろだねぇ・・・」
 吾郎君はボソッとつぶやいて、マイクロファイバーの布でグラスを磨き始めた。
 「どう久しぶりの飲食業界は?ずいぶん変わってしまった?それとも変化なし?」
 「どうだろうね、まだよくわからないけど、相変わらず鼻につく部分と、意外に楽しいなって思うことが半分半分かなぁ・・・」
 「鼻につくねぇ・・・。翔太くんらしい表現だね」
 拭き終えたカクテルグラスを見上げて、汚れの残りを確認している吾郎君をぼんやり見ていた。ここに来てまだ10分ほど。マティーニ一杯で、自分の中の澱のようなものが吐き出せたような気がする。よくあるバーテンダーの話に、自殺願望者が、バーに来て、人生最後の一杯を注文するときに、いいバーテンダーはそれを察して、自殺を思いとどまらせることができるという話をきいたことがある。それがバーテンダーを過剰に評価する美談なのか、たんなる戯言なのか僕にはわからない。バーテンダーは自殺願望者の自殺しようとする原因を解決できないかもしれないが、話を聞いて止めることはできる。この世の片隅でひっそりと消えていくはずの生命が、たまたま会った人間の一言で、また息を吹き返すなんてロマンのある話じゃないか。そんなことをカウンターに座って一人とめどなく考えている自分をふと冷静になる。あ、僕、いい感じに酔ってるわ。すきっ腹の一杯目にマティーニなんて強い酒を選ぶなんて愚行だなと思う。しかしこんあ歌の歌詞があったなとぼんやりと思い出す。
 「おいでここは愚か者の酒場さ」
 
 
 

 


 






今ほとんどの人がウイスキーに目を向けていて、必死に情報処理をしてるのを横目で見ながら

「君はどこか貴族趣味的なところが昔からあるよね?」

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