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【第53話】キッシュが冷たくなるまえに

 「前から聞こうと思っていたんですが、どうしてこのビアズリーの絵を飾ってるんですか?こういう店だったら、わかりやすくミュシャとかロートレックとか、女性が喜びそうな絵ってあるじゃないですか。どうしてそういう絵を選ばずに、こういう怪奇というか幻想というか、はたまた耽美というか・・・」
 間接照明でぼんやりと照らされた額には、惨殺されたヨカナーンの首を持ったサロメが口づけをするようにしている絵が描かれている。白黒なので生々しさはないが、タトゥーの絵柄になってもおかしくはない妖しさがある。白黒ゆえに艶めかしさが際立つといってもいい。
 「うーん、どうしてだろうね。セント・ミカエルなんて恥ずかしい店の名前をつけちゃったせいで、聖なるものだけじゃなく邪悪な物も混在するほうがいいと思って真逆の物を飾ってバランスを取っているつもりなのかしらね」
 ミカさんはちょっと困ったような顔で首を傾げて、他人事のように話している。僕と同じ市松模様の湯呑で玄米茶を一口飲んだミカさんは、ふうっと息を吐いた。
 「翔太君は谷崎潤一郎って読んだことある?その谷崎の短編小説に「人魚の嘆き」っていうのがあって、その押絵がとっても妖しくて不思議な絵だったのよ。その絵を描いたのが水島爾保布って人で、ビアズリーに影響を受けているの。ちょうどここのトイレの前に飾ってある小さな額にその押絵が飾ってあるわ」
 座席があるフロアの奥の右に行くとトイレがある。突き当りの壁には濃いブラウンで塗られた腰版があり、その上が濃い緑地の草木の模様が壁紙が貼ってある。その中心にA4ほどの大きさの古い額が飾ってあり、雑に塗ってあるんじゃないかと思えるゴールドの額の中には、中国服を着た女性が、のけぞった人魚を抱きしめている。西洋風の豊かな乳房と骨格を持つ人魚は、その中国女の二倍以上の身長があり、その中国女の手が、まるで人魚を愛撫しているかのように、左手が人魚の首の裏を通って左の乳房を触り、右手が両乳房の中間から右の乳房を確かめるように沿うように置かれている。のけぞって長い髪を乱している人魚はうっとりと目を閉じて、愛撫の続きを待っているかのようだ。
 「谷崎潤一郎は春琴抄だけ読んだことがあります。あの絵が谷崎の押絵だったんですね。らしいといえばらしいですよね。暗闇のなかで何かが妖しく発酵する感じというか・・・」
 盲目の美女と丁稚奉公のさえない男の、誰にも邪魔されない二人だけの関係を描いた作品。赤地に黒の枝、そして金色の桜が描かれた文庫本の表紙がふと頭に浮かんだ。
 「春琴抄ね、私も好きよ。春と琴と抄、この三文字だけでも妖しい香りが漂ってきそう。そう思わない?春琴抄は春琴のために自ら目を潰す男の話。サロメはヨカナーンが首を切られてサロメの生贄になる話。人魚の嘆きは好きになった人魚を故郷の海に返しに行く話。全部男が犠牲になる話よね。私は男が犠牲になる話が好きなのかな?」
 とミカさんは苦笑して口を手で隠した。目じりに浮かんだ数本の皺が綺麗だと思って見とれていたが、その視線にミカさんは気づいたようで、僕はあわてて視線を外してバックバーのウイスキーのボトルに視線を移した。ミカさんは独身らしいが、過去にどんなことがあったのか僕は知らない。今はパートナーがいるのかいないのかさえも知らない。この年齢でこれだけの美貌なので、なにかはあるんだろうとは思っている。
 「ミカさん魔性の女だったりして。かかわった男達みんな自らを犠牲にして滅んでいく、とか。そんな過去がおありじゃないんですか?」
 と冗談めかしていってみたが、ミカさんは苦笑いをして手を左右に振って否定をするだけで厨房に入って行ってしまった。手持ち無沙汰の僕はスマホを出してインスタのアプリを開いた。昨日何気なく凪人の店をフォローしといたので、彼の店の店の画像がいきなりでてきた。どうやらお客が撮ったものらしく、美女二人に囲まれてキメ顔をしている画像だった。
 「翔太さん、何見てるんですか?なんか苦々しい顔をしてますよ」
 いつのまにかはるかさんがカウンターに入っていた。
 「これ見てたらさ、ちょっと苦々しくもなるよ」
 と言ってスマホの画像をはるかさんに見せた。この店のカウンターはけっこう奥行があるので、カウンターの客とカウンター内の店員とはちょっと距離がある。僕はなるべく手を伸ばしてはるかさんが見やすいようにしているが、どうやら視力がよくないはるかさんは目をしかめて見ようとしているがよくわからないらしく、痺れを切らせて僕の横にやってきて僕のスマホを覗き込んだ。

 みるみるうちにはるかさんの顔色が変わっていった。
 
 


 


 


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