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【第55話】キッシュが冷たくなるまえに

 「実は・・・」
  「いや、言わなくていいよ、想像できるから」
 ためらいがちに言葉を探しているはるかさんが痛々しく思えてきて、思わずはるかさんの言葉を遮ってしまった。はるかさんは驚きを隠せずに両目を大きく見開くと、急に恥ずかしがった表情を見せ、どんどん顔色がピンク色に染まってうつむいてしまった。その表情を見ていたらどんなことが起こったか想像がついてきた。多分はるかさんは凪人と関係を持ったんだろう。もちろん肉体を伴う関係だ。昨日はこの店と凪人の店も休みだったから、充分に可能性はあるはずだ。あいつなら一日ではるかさんを落とすのは訳ないと思う。あぁ、はるかさんもただの女だったのか・・・。
 「ま、凪人にとってはいつものことだから・・・」
 素敵な子だなぁと思った子が、凪人があっという間に自分のモノにしていくの慣れている。武勇伝のように昨夜の彼女の様子を聞かされて、ウンザリするのにも慣れていた。今回は凪人が身近にいないだけベッドの上のはるかさんの様子を知ることもないだけまだマシだ。凪人のことだ、はるかさんの首筋にキスマークをたくさんつけたりしているのだろう。ボタンダウンのシャツを着ている理由は、首元を隠すためにちがいない。何かシャツに違和感を感じた理由が今わかった。
 「モテる男はいいよねって妬みだけどさ、言いたくもなるよ。なんでみんなあいつに行っちゃうのかな?こんなこと思ってるからモテないんだろうけどさ・・・」
 はるかさんは無言で壁の方を見ている。視線の先にはビアズリーの絵があって、お互い視線を合わせるのが気まずい雰囲気になっている。頭の中でいろんな妄想が膨らんでいて、今まで以上にはるかさんが艶めかしくみえてしまう。
 「じゃぁ、帰ります。お勘定を」
 そういってジャケットを羽織ってバッグを持ってレジに向かう。正直これ以上この場所にはいられなかった。早く一人になりたかった。支払いを終えて「おやすみなさい、それじゃまた明日」というのが精いっぱいで、お互いに視線を合わすことなく店をでた。
 ドアを開けて外に出ようとすると、「ありがとうございました」と背後からはるかさんの元気がない声が聞こえたが、聞こえない振りで車に向かった。秋の始まりを告げるように鈴虫が遠くで鳴いていた。
 
 「おっ、お帰り、遅かったな。ミカさんとこで試作してたんだって?何を作ってたの?」
 父さんはおつまみ用のイカフライを肴にしながら芋焼酎のソーダ割りを飲んでいて、読んでいた文庫本から視線を外して僕の顔色を見ると、怪訝そうな顔をした。
 「うん、レバーペーストを作ってた。画期的な鶏レバーの下処理を教えてもらって、オーブンで湯煎にしなくても出来る簡易鶏レバーペーストの実験をしてたんだ。一晩冷やして明日みんなで試食してみることになってる」
 ジャケットを脱いでネクタイを緩めて首を左右に振ると、ゴキゴキと鈍い音で首が鳴った。
 「僕も一杯もらっていいかな?ロックで飲むわ」
 僕はそう言って戸棚からウイスキー用のグラスを取り出す。冷凍庫から氷を入れて、テーブルの上にあった黒地に赤文字の芋焼酎をなみなみとグラスに注ぎ込んだ。グラスに近づけて香りを嗅ぐと、芋の香りがせずマンゴーやバナナのようなフルーティーな香りがする。決してウイスキーやブランデーのような強い香りではないが、ほのかに優しく自然な香りで、微かに芋の香りがする。
 「画期的な鶏レバーの処理ってどうしてるの?牛乳は使う?血の塊とかはもちろん取るんだよね?」
 「牛乳は使わずにお湯を使うんだ。沸騰したら火を止めて日本酒を入れる。血の塊はもちろん取って水洗いしたレバーをそのお湯に入れて30分待つだけ」
 そう言ってグラスの芋焼酎をグビリと飲むとグラスの中はもう半分になっていた。鼻腔に甘いフルーティーな香りが抜けてゆく。「ふぅっ」っと大きくゆっくり息を吐いた。
 「もちろんレバーはある程度薄く切ってるから、30分たったらほとんど火が入っていて食べられる状態になってるんだ。変な血の臭いもしないし、すごい楽」
 父さんは頷くと文庫本をテーブルに置いて、グラスに残ったソーダ割りを飲み干した。
 「へぇ、今度やってみるよ。家にはレバー好きが美穂しかいないけど、血の臭いがしないなら食べやすそうだね。レバーは栄養価が高いし、価格が安いし、何か作ってみようかな?レバニラとかはどうだい?」
 父さんは空になったグラスに芋焼酎と炭酸水を注いで、クルクルっとマドラーで混ぜた。
 「町中華みたくていいかもね、チャーハンとか餃子なんかと一緒に生ビールを飲みたい」
 小さくなった氷がグラスの中で回っているを僕は目でぼんやり追いながらとうさんの話に合わせるようにつぶやいた。本当は食欲なんてないんだけど・・・。グラスを手にして残りの芋焼酎をグイっと空けると胃の底の方がほのかに火が着いたように温かくなってきて、早くも酔いが回ってきたようだ。空のグラスに芋焼酎を注いで、父さんのおつまみのイカフライを袋から一枚とってバリバリとかみ砕いて、無理やり飲み込んだ。なんだか味がしない、口の中に残ったイカフライを流しこもうと飲んだ芋焼酎も同じく味がしなかった。辛いときに飲む酒は苦いっていうけど、それは嘘だ。本当は味なんて感じなくなることに今日気づいた。
 
 
 
 


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