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キッシュが冷たくなるまえに(33話)

 はるかさんの膝の感覚がまだ右の太ももに生々しく残っている。素知らぬ顔を取りつくろって、グラスの水を飲み、横目ではるかさんの様子をうかがうと、彼女は何もなかったかのように美穂のほうを見てワインの話の続きをしている。残り一切れになったマグレ鴨の切り身に皿の上のありったけのソースをスプーンでかけて口に入れてゆっくり噛んで食べて、残ったパンで皿の上の残ったソースをきれいにふき取って口に頬張り肉のメイン料理を食べきった。もうベルトを緩ませたいくらいにお腹がいっぱいで、これから食べるデザートが食感の軽い物で本当によかったと思った。
「おさげします、きれいに食べていただいてありがとうございます。マグレ鴨はお気にめしましたか?」
 ウエイターがそう言って皿を下げると、僕は頷いて「マグレなんてここ十年くらい食べてなくて、久々にこんな味なんだって再確認させていただきました。美味しかったですよ」そう答えて軽く会釈をした。
「あとで凪人にも美味しかったって伝えておいてください」
「かしこまりました、本人も喜ぶと思います」
ウエイターはそう言って笑顔で去っていった。

 厨房ではディナーの肉料理のタイミングが重なったらしく、凪人はつぎつぎと切った鴨肉にソースをかけている。となりの二人も話し込んでいて、こちらが入り込む余地がなさそうだ。手持ちぶさたの僕は、カウンターの左端にあるウイスキーやブランデー、リキュール類が置いてある一角をぼんやり見つめてぐらいしかなく、横の二人はまだ半分ほど皿に肉も野菜も残っており、すべて食べ終えて会話にも乗れない僕は、ミカエルのメニューをどうしようかとか、明日の仕事の段取りとか、そんなことばかり考え始めて、気持ちが非日常から日常に移り変わってくるのを感じていた。

「ちょっと外の空気を吸ってくるね。お二人はゆっくり話していていいよ」
そう言って立ち上がり出口のほうに歩いてゆく。腕時計を見ると8時30分過ぎで、テーブル席を見渡すと、ほとんどの人がメイン料理を食べているようだ。僕達の席の後ろでは、部下らしい二人の若い男を連れた、どうやら上司らしい中年の男が、大きな声で若い頃の自分の仕事ぶりを自慢気に語っている。部下らしい男たちは、多分僕と同世代で、作り笑いを浮かべて黙ってその自慢話を聞いている。その横のテーブルでは、グレーの髪の中年男性と若い女性の二人組がひそひそ話をしていて、なにやら意味ありげな雰囲気を醸し出している。会話内容がわからないが、お互いスーツ姿なので社内不倫なのかと邪推してしまう。入口に一番近い席にはお母さんらしい中年女性と、中学生か高校生らしい女の子と、小学生高学年の男の子が座っているのを横目で見ながらテーブルの横をすり抜けた。

 入口のドアを開けると依然霧のような雨が降っていて、じめっとした湿気とたばこの煙と香りが漂ってきた。入口の横に丸いテーブルと椅子が二つおいてあり、男性が一人座って紫煙をくゆらせている。その男が大きくタバコを吸うと、薄暗い中でタバコの火が蛍の光のように強く光っている。その後息を吐き出す音が聞こえたと思ったらタバコの煙が入口前で立ちすくんでいる僕のほうに流れてきた。
「すいません、タバコ吸ってるんですが吸い続けてもよろしいでしょうか?」
 低く響くような声だが威圧感はなく、柔らかな口調が紳士的で心地いい。剃りあげた頭に角ばった眼鏡をかけて、口とアゴ周りは髭でおおわれている。白地に薄いブルーのストライプの入ったシアサッカーのスーツに白のポロシャツ。キャンバス地の白いスニーカーを素足ではいて脚を組んでいる。暗闇で肌つやはわからないが年のころは40代前半かもしれない。
「僕は吸いませんが、全然大丈夫ですよ。お気になさらず吸ってください」
 あたりは雨で濡れた土の香りが空気に充満していた。そこに香ばしいカカオと、スパイスが混じりあったフレーバーの煙がゆらゆらと流れている。この香りで普通のタバコを吸っている訳ではないことがわかる。
「複雑な香りのタバコですね。タバコというよりは葉巻に近い。香ばしいような、スパイスが効いてパンチがあるような不思議なアロマです。東南アジアのリゾートで、スコールを眺めながら去りゆく夏を見送ってるような気持ちになります。夏の終わりを告げるような香りといったらキザすぎますか?」

 知らない人にガラにもないことを言ってしまった。後悔したが後の祭りで、男性の長い沈黙が続いている。何か気に障ることをいったのか不安になり、きょろきょろと周りを見渡すと窓明かりの向こう側では、皆楽しそうに会話と食事を楽しんでいて、かすかに女性の笑い声が聞こえてくる。

「キザすぎるのかもしれないが、あなたが感受性が豊かな人物であるのはわかります」
 そう言って男は紫煙をくゆらす。煙は空高く上がっていかず、雨の湿気のせいか横に流れていくのが外灯で見えて、その複雑な香りと煙は雨の中に消えてゆく。霧雨が会話と紫煙を吸収するように降り続いている。
「シガリロといってタバコサイズの葉巻なんです。葉巻の香りに近いっておっしゃいましたが、その通りですね」
 彼はそう言ってまた沈黙する。
「食後のお楽しみのところを邪魔しましたか?」
 僕はおそるおそる質問してみた。
「いいえ、そんなことないですよ」
 そう言って男性は短くなった葉巻を灰皿に押し付けて消すと、「こちらに座りませんか」と言って微笑んだ。
 
 







  





 

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