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【第40話】 キッシュが冷たくなるまえに

  父が姉を呼びにいったので、塩焼きの準備に取り掛かった。まな板の上には、かなり大柄のサンマが3匹のっかっている。目の色も濁りがなく、胴体の太さも普通のサンマの1,5倍くらいあり、見るからに油が乗ってそうだ。スーパーでこのくらいのサイズのサンマを見たことがない。スーパーで買ったのなら、発砲スチロールのトレイに乗せてあるはずだがそうではない。どこで買ったのかわからないが、ちょっと値段も張るんじゃなかろうか?サンマの頭を切り落として、ワタを取り出す。ワタを取り終えて、サンマを水洗いしているときにキッチンタイマーが鳴った。どうやら炊き込みご飯が炊けたようだ。熱くなった上蓋2つをさっと素手で取ると、白い湯気、醤油と豚肉の香りが立ち込めて、僕は大きく深呼吸でこの香りを楽しんだ。ご飯の上のブナシメジやタケノコとご飯を混ぜ込んで、まだ熱が残っている2つの蓋でいそいで土鍋にフタをして、キッチンペーパーでサンマについた余分な水分をふき取って塩を振り始めた。みそ汁を温めるのを忘れていたなと思いだして、コンロに火をつけたところで、階段から足音が聞こえてきて、姉の美穂と父が下りてきた。
 「二日酔いで休んだんだって?やっぱ出勤は無理だったか」
 美穂は二日酔いで出勤しなかったとは思えないほどすっきりした顔で、冷蔵庫から容器に入った麦茶を取り出してグラスに注いでいる。
 「うん、無理だった。午前中いっぱいまで大変だったけど、今はもう大丈夫よ」
 そう言って美穂は麦茶を一気に飲み干した。
 「二日酔い後の麦茶って最高に美味しいわ。五臓六腑に沁みわたるってこのことね。胃、大腸、小腸、肝臓の粘膜から体中の細胞に水分がいきわたって、まるで生まれ変わったかのよう。赤茶けた乾いた大地に雨水が沁みわたっていくようだわ。今晩はサンマね、美味しそう」

 「姉ちゃん、生まれ変わったついでに、サンマくらい焼いてくれよ。塩振って、コンロで焼くだけだよ。生まれ変わったらそのくらいはできるでしょう?」
 「わかったわよ、生まれ変わった私は、美貌はそのままで料理の才能さえも手に入れて、ほぼ完ぺきな女神としてこの世に降臨した。でもサンマの塩焼きは、私には簡単すぎる。舌平目のムニエルのときまで、私の調理能力はセーブしておこう」
 美穂は女神になりきり、出来ない言い訳をして、麦茶の入ったガラス瓶を冷蔵庫に返すと、缶ビールを一本取り出して、プルトップをプシュっと開いて、ゴクリと一口ビールを飲んだ。
 「ったく、どこが完璧な女神だよ。さんまを焼くのも拒絶するなんて不完全そのものだろうよ。そのうち本当に舌平目を手に入れて作らせるからな」
 魚焼き用のグリルに火をつけて、余熱の時間を持て余した僕も一口ビールを飲む。窓を開け放つと、海からの吹いてくるちょっとひんやりした風が気持ちいい。新しい空気をキッチンに入れると、ま、細かいことはどうでもいっかという気分になる。魚焼き用グリルのトレイに煙防止用の水を少々入れて、網にサラダオイルを塗ってサンマを入れた。後は大根おろしをすりおろすのみだ。
 音楽はジャンゴラインハルトの曲からは変わったが、相変わらずジプシージャズの曲が続いている。今度の曲は女性ボーカルが入っていて、英語で歌われている。ギター二本、バイオリン一本で打楽器がなく、ズンチャ、ズンチャと、ちょっと跳ねたギターのカッティングがリズムを刻んでいき、そのリズムの上に哀愁を帯びたバイオリンの音色と、もう一つのギターのエッジのきいた音色が交互にメロディーを紡いでゆく。明るいのにどこか物悲しい、懐かし雰囲気にキッチンが包まれて、思わず耳をすまして聞いてしまう。僕の背後では二人とも動いている気配はなく、父も姉も耳をすませて音楽を聴いているのがわかる。このリズムに乗って、大根を擦り下ろし、サンマが焼けるまでビールを飲みつつ、音楽に耳を傾けていた。


 
 
 
 



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