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キッシュが冷たくなるまえに【第60話】  大至急でカルボラーナを

 

 ミカエルの駐車場に入るとほとんどが埋まっていて、一番奥に一台だけの空きを見つけてプジョーを滑り込ませると、ダッシュボードのオレンジ色に光るデジタル時計は20時ちょうどを示していた。運転席からミカエルの窓越しに見える店内には、8割がた座席が埋まっているようで、ミカさんが忙しそうに速足で動いているのが見えた。本来はミカさんの娘さんの明日香ちゃんがいて三人態勢でお店を回しているのだが、今は交通事故で入院中の明日香ちゃんなしで2人でお店を運営している。こんな込み具合だと今頃厨房は火の車で、はるかさんがパニックってる姿が目に浮かんだ。車から降りて駐車場の車を見渡すと、軽自動車に混じって、メルセデスAクラス、BMWの3,アウディA3とドイツ車が揃っている。月末の金曜日、今晩はちょっとお金を使ってくれそうなお客がいそうな感じだ。

 「今晩は」
 重い木製のドアを開けて、きょろきょろと店内を見渡すと、一番奥の座席でミカさんが注文を取っていた。このまま待とうかと思ったが、しばらくは僕の対応なんてできそうにないだろう。ちょっと図々しいかもとは思ったが直接厨房に乗り込んで厨房の手伝いをしようと決めた。昨夜も試作で厨房を使っていたので、半正規のスタッフと言ってもいいだろうし、そんなことぐらいは許されるだろう。昨日の夜の打ちひしがれた僕ではない、積極的な自分を見せてやろうと心に誓って、常連達で埋まっているカウンター席を横目に厨房に入って行った。
 「ご苦労様です、大丈夫?」
 出来るだけ元気な声を作って、ピザをオーブンに入れているはるかさんの背後から声をかけたが、はるかさんは振り返らずに「ご苦労様です」とだけ答えて、素早く冷蔵庫を開けて食材を探している。眉間に皺が寄って、若干目が吊り上がり、緊張した雰囲気が厨房に漂っている。忙しくてピリピリしているのと、凪人とのことがバレて気まずい思いしているのか目を合わせてくれない。
 「この緊張感、懐かしいね。ちょっと手伝うよ」
 僕はそう言って空いたスペースにバックを置き、ジャケットを脱いで壁に取り付けられたハンガー掛けのフックにかけた。
 「で、何すればいい?オーダーはどうなってるの?」
 シャツの袖をまくりながら台の上のオーダーを見ると マルゲリータとペペロンチーノがひとつずつ。そしてカルボラーナが2人前。あとはデザートの注文がいくつか入っている。マルゲリータは今オーブンの中に入ってるからパスタをやっつければいいのかと頭の中で段取りを組んだ。しかしほとんどがイタリアンのメニューだなと改めてイタリアンの日本での市民権の大きさをしみじみと思う。
 「これからパスタを作るんです。オーダーが一気に入っちゃって、ちょっとパニック状態。給料日後の週末なので、覚悟はしてたんですが、想像以上のお客様の数でした」
 額の汗をタオル地のハンカチで拭きながらはるかさんは答えたが、こちらをけっして振り向かない。
 「はるかさん、僕カルボラーナを作るから、ぺペロンだけお願いできるかな?」
 正規のスタッフでもないのに勝手に厨房に入ってきて、指示言っててるなんて越権行為以外の何物でもないのはよくわかっている。凪人への対抗意識で、いいところを見せつけたいのもよくわかっている。しかし僕が出来るアピールなんてこんなことくらいしかない。

 「気持ちは嬉しいのですが、私の仕事なので・・・」
 はるかさんはようやく振り向くとちょっと困った顔をして、うつむきながら業務用のパスタ釜でパスタを茹で始めた。
 「いや、このままじゃ試作を始めるのが遅くなるし、ぼぉっとはるかさんがてんてこ舞いになってるのを見てるのもねぇ・・・」
 僕に対して心を開いていないなと思った。忙しい中に現れた救世主のつもりが、そうじゃなかったのがわかった瞬間に、空回りする気持ちが及び腰になった。もし凪人がここに来て僕と同じことを言ったのなら、はるかさんは何て言うんだろう。同じように断るのか?それとも諸手を挙げて助けを求めるのか? そりゃ肉体関係があったなら・・・。僕は歯噛みをしながら、はるかさんの背中を見つめるしかできなかった。
 
 「おっ、翔太君ご苦労様です。どうしたの?」
 ミカさんがオーダーを取って厨房に入ってきた。急に顔色が変わったので不穏な空気が気づかれたのかもしれない。
 「いや、翔太さんがカルボラーナを作ってもいいかって・・・」
 はるかさんは不服そうに答えた。ミカさんは二人の顔色を見くらべて首を傾げている。
 「まぁ、別にいいんじゃないの?翔太君ならパスタくらい楽勝にできるでしょ。はるかちゃん、マルゲリータを一つ追加で、翔太君もカルボナーラを一つ追加ね。そこのエプロン使っていいから、あとお願いね」
 そう言ってミカさんはハンガー掛けに無造作に引っ掛けてあるエプロンを指さして、カウンターに消えていった。とにかく許可はもらえたので、あとは自分が頑張って美味しいパスタを作るのみで、頭の中でカルボナーラの作り方を記憶の片隅から引っ張り出して反芻してみた。よく賄いで作らされたし、自宅でも時々作ってはいるので自信はある。
 「生クリームある?」
 「どうぞ、これです」
 背後から生クリームの紙パックをドンと置かれた。
 「パルミジャーノ・レッジャーノはある?それとも粉チーズ?」
 「粉チーズは使いません」
 はるかさんは目で合図をして、その目線の先の作業台の上にはチーズの塊とチーズおろし器が無造作に置いてある。さっきのピザに使った後なのだろう。
 「パンチェッタってある?」
 「さすがにパンチェッタはないです。ベーコンの厚切りでお願いします」
 とブロックベーコンと卵をを手渡しされた。ベーコンを掴む際に指と指が触れるが、鉄火場の厨房ではロマンスの香りすら漂うことはない。エプロンの腰のベルトをウエストにひと巻きしてキュッと締めると、ベルトが身体に食い込んでシャキっと自然に姿勢が伸びる。こんなシャキっとした気持ちで料理をするのはどのくらいぶりだろう。一瞬感傷に耽りそうになるが、蝶結びを終えて大きく深呼吸をすると、そんな感傷は消え去って自然に戦闘モードに入り、卵を割り卵黄を取り出してボールに入れ、パルミジャーノ・レッジャーノをすりおろしはじめた。


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