『係恋』第7回
秘密を語る男・森村
私は土曜日の朝方になってから、ようやく三時間ほど眠り、ほぼ思考停止状態のまま重い体だけ起き上がった。午後には、鎌倉で森村さんと会う約束だ。鎌倉は憧れの地で、ゆっくりと名所巡りをしたかったが、今回は我慢だ。明日の午後には、札幌へ帰らなければならない。昨夜は急遽、森村さんに読んでもらうための報告書作りに取りかかった。同期入社の中川さん、大学のサークル仲間である大島さん、由衣さんの友人である早見さんの話を全て文字に起こした。ノートに筆録した麻美さんと由衣さんの母親たち、美緒ちゃんの元同級生の母親である城ヶ崎さんのものは、分かりやすく文章化した。それだけでほとんど徹夜になってしまった。さすがに頭が重い。体がだるい。
一方の光輝は、一緒に鎌倉へ行く気満々で準備をしていた。スマホでランチがおいしい店を探していた。
「仕事メインだけどいいの?」
「邪魔にならないようにするから。何かあったら困るしょ」
光輝に北海道弁が出るのは、負の感情を抱いている時だ。なるほど森村さんに、私が圧倒されないか心配してくれているようだ。
「行き帰りの電車の中でも、あれこれ考え事して、無口になる可能性が高いけど」
「わかってる。その代わり、久しぶりに手をつないで歩こうよ」
「うん」
「一緒に歩くだけで十分だよ。つき合い出した頃は、そんな感じだった」
「確かに」
私たちは、そんな関係から始まったのだ。お互いを知ろうとせず、何も求めず、ただひたすら無言で、手をつなぎ札幌の街を歩いた。一緒にいることだけに安堵した。それは今も変わらない。
私たちはJR横須賀線で鎌倉駅に行き、そこから江ノ電に乗り換えた。森村さんとは、彼の実家近くの喫茶店で午後一時半に会う約束をしていた。仕事とは言いつつも、やはり憧れの鎌倉だ。その景色を焼き付けようと、眠い瞼を押し上げた。光輝と二人、街中を散策するだけで満足感があった。冷たい海風が吹き抜ける古都の風情。何て素敵な街なのだろう。数多くの小説の舞台となったことに納得だ。そして森村さんはこの街で育った人なのだ。
その後、光輝が見つけてくれたレストランでブランチをとり、再び待ち合わせ場所に向かって海岸沿いを歩いた。きらきらと輝く海が瞳に焼きついた。波の音が聴覚を支配した。イルカになった自分を思い描いた。刹那、光輝の子供が欲しいと思った。私はそんな発想をしたことに赤面し、心臓がどきどきして苦しくなった。思わず胸に手を当ててから、その仕草が潮の香りのせいであるかのように演じた。私の中に今までなかった感情が芽生えていた。
約束の喫茶店へは十五分前に着いた。光輝は入店と同時に私の側をさりげなく離れた。私が店の人に名前を告げると、奥まった四人掛けの席を案内してくれた。森村さんが予約をしておいてくれたのだ。そして、私の背後の席に光輝が陣取った。森村さんの顔が見える席を選んだようだ。少々不安になった。光輝は意外に抜けているところがある。
私が資料をテーブルに広げて準備していると、森村さんが時間より早く現れた。
「こんにちは。森村です」
「あっ、フリーライターの霧島エリです。よろしくお願いします」
私は慌てて立ち上がり名刺を渡した。瞬時に顔が赤くなった。想像以上のイケメンだ。森村さんはSNSで見た写真のイメージとは違い、知的でクールというよりは穏和でピュアな印象だった。何よりも瞳が透き通っている。女性はまずその目にやられてしまうだろう。やはりとても魅力的な人だ。しかも、かなりおしゃれだ。グレーのショートコートに、トーンの違う同色のタートルネックと黒のコーデュロイパンツ。ボルドーのマフラー。さすが流行を発信するデパートに勤めていただけあって、さりげない大人のおしゃれが似合う。こういう完璧でかっこいい人は、総じて苦手だ。緊張する。視線を合わせられない。
森村さんはコートを脱いで、私の向かいの席に座った。光輝とは違うオーデコロンの香りがした。とたんに人見知りが発動される。私が戸惑っていると、森村さんはさりげなくメニューを差し出した。光輝より少しだけくたびれた手をしている。
「今日は寒いですね。コーヒーは好きですか?」
「はい。大好きです」
「ここのブレンドはおいしいですよ。お薦めです」
「それをお願いします」
「すみません、コーヒーをふたつ。オーガニッククッキーもお願いします」
「かしこまりました」と店員が離れていった。
気遣いのある会話から、その仕草まで、何もかもがスマートで素敵な人だった。私は対峙とまではいかないが、厳しい質問もぶつけるつもりで心を鬼にしていた。しかし、そのやさしい口調に、すっかり気が抜けてしまった。そういう相手ではなさそうだった。
「本日はお忙しい中、お時間をいただきまして、ありがとうございます」
「千春が難題を出したみたいで、かえって申し訳ありません」
その謝罪に私は面食らった。千春さんに負の感情を抱いている様子は微塵もなかった。
「いいえ、そんなことはありません」
「霧島さんはおいくつですか」
「二十七です」
「千春と同じですね」
「はい」
「女性にとっての輝やかしい時期を、俺は千春から奪ってしまったんですね」
「森村さんのせいなのでしょうか?」
「そう思います」
森村さんは自責の念を表した。千春さんに娘を殺されたというよりは、殺させてしまったという気持ちの方が強いのかもしれない。そう思う根拠はどこにあるのだろうか。
私は徹夜でまとめた報告書を差し出した。
「こちらがお約束のインタビューを原稿に起こしたものです。いっさい省いていません。同期入社の中川さん、大学のご友人の大島さん、由衣さんの友人の早見さんの順です。そして、こちらが筆録した麻美さんと由衣さんのお母さんのお話、美緒ちゃんの元同級生のお母さん。そして、最後が私の所見です。ぜひ、お目を通してみて下さい」
「ありがとうございます。拝見します」
森村さんは原稿を手に取ると足を組み、真剣な表情で読み始めた。その間、私は運ばれてきたおいしいコーヒーを飲みながら、森村さんの様子をただじっと見つめていた。店内には物憂げなピアノ曲が流れていた。中川さんが言うとおり、本当に物腰が柔らかい紳士的な人だった。私は想像に反して、ずいぶんと穏やかな心境だった。三人の妻たちを次々と不幸にするような人には到底見えない。女たちは皆、彼に癒されることはあっても傷つけられることはないだろうと勝手に想像してしまう。やはり、始まりは美緒ちゃんの問題行動なのだろうか。それとも、私もすでに彼に魅了されているのだろうか。
私が仕事を忘れ、心地よいピアノ曲に耽溺しかけそうな所で、森村さんは報告書をテーブルに置いた。私は現実に引き戻されて、改めて森村さんの顔を見た。
「ライターって探偵よりすごいですね。こんなに素直に人の話を引き出すなんて」
「確かに受ける側の印象は違うと思います。探偵はこっそりと探るイメージがあるのに対して、ライターは取材の趣旨を伝えて、正面からインタビューさせていただいている感じです。秘密を聞き出すのではなく、あくまでも真実を語っていただいています」
「君が女性であるということも大きいですね。警戒心が軽減される」
「それはあるかもしれません」
突然、森村さんがくすっと笑った。
「ねえ、あそこにいるボディガードは霧島さんのカレシかな?」
「えっ?」
「かっこいいね」
森村さんは、光輝の存在を見破っていた。光輝はいったいどんな表情をしていたのだろう。挙動不審に見えたのだろうか。私は森村さんの眼力に素直に降参して頭を下げた。
「すみません。バレバレですね」
「ずっと心配そうにこっちを見ているから」
森村さんが再び目を細めて笑った。それまでの堅苦しい敬語が親しみのある口調へと変わっていた。「次々と女を不幸にする危ない男に、君が魔法でもかけられたらどうしようって、見張っていたんだね」
「いいえ。そんな。仕事だって言ったんですけど、何かついてきてしまって」
「真っ直ぐだなぁ。微笑ましい。つきあって長いの?」
「高二の時からなので十年になります」
「高二か俺がレイと出会った時と同じだ」
「レイさん?」
「今度は俺の秘密を話す番だね。心配しているカレシも呼びなよ。一緒に聞いてもらってかまわない。いや聞いて欲しいくらいだ」
私は振り向き、光輝に向かって小さく手招きをした。
光輝は不測の事態をすぐに察し、席を立つと決まりが悪そうに近づいてきた。そして、観念したかように低頭し挨拶をした。
「こんにちは……」
「霧島さんのカレシだって、すぐにわかったよ」
「邪魔をしてしまったようで、すみません。南城光輝と言います」
「よかったら、同席して一緒に話を聞いてくれるかな」
「いいんですか?」
「ああ。男である君にも聞いて欲しい。それに、ちょっとレイに雰囲気が似てるんだ」
光輝が席に着くと、森村さんは静かに、時に遠い目をしてレイさんのことを語り出した。彼はあまりに正直に赤裸々に回想した。今回の事件に森村さんの恋愛がサイドストーリーとして関わっていたとは想像だにしなかった。そして、光輝が疑問に感じていた、麻美さんと結婚するに至った経緯、友人の美香子さんとの関係も明確になった。同性愛は決して罪ではないのに、どうしてこんなに怯え続けなければならなかったのだろうか。秘密裏に守り続けてきた最愛の人は、もうこの世にいない。
私はその内容を噛み締めながら、事細かに筆録していった。
「この辺で一旦中断してコーヒーのおかわりをもらおうか」
森村さんは店員を呼んで、光輝の分も追加してコーヒーを頼んでくれた。
「霧島さん、書くの大変そうだから、これからは会話を録音しても構わないよ」
「すみません。お言葉に甘えさせていただきます。助かります」
私はレコーダーをバッグから取り出した。そして忘れないうちにと筆録の続きを、やはり必死に書いていた。森村さんは私に気を遣って、さりげなくインターバルをとってくれたようだった。私は彼の人間性に触れたことで、迷路の出口を見つけ安堵していた。
「南城君は何の仕事をしてるの?」
「H銀行に勤めています。昨年の春に東京支店に転勤で来ました」
「ということは遠距離か。さびしいね」
「超さびしいです」
光輝の正直すぎる発言に私は赤面した。見なくても、森村さんが微笑んでいる柔らかな空気が伝わってくる。当たり前だが、森村さんに比べると、光輝は相当子供に見える。
「エリは三回もプロポーズしたのにOKしてくれないんです」
「ハードルが高そうだね」
「はい」
しかも、光輝は私的な相談を始めた。森村さんに対して相当な警戒心を持っていたはずなのに、そんなことはとうに忘れている。やはり光輝は単純だ。そこが長所でもある。
「結婚して本当に幸せな人って、どれくらいいるんだろうね」
森村さんは、店内に流れているバラード調のピアノ曲に乗るように囁いた。「今朝、テレビの情報番組で、六十代の女性が、人生の中で最高にハッピーだったのはご主人と結婚したことだって、真顔で答えていたんだ」
「それ僕も見てました。本当に笑顔のやさしそうなご主人で。奥さんの方も自分が決めることを黙って認めてくれるって、のろけてましたよね」
「本気で羨ましいと思った。うちの両親もそうだけど、冷めていく夫婦が圧倒的に多い中、何十年たっても変わらずに好きでいられるなんて」
「実は男の方がロマンチストだったりしませんか」
「同感。女性は男なんてみんな浮気する、誘惑に弱いとか思ってるかもしれないけど、意外と女性並みに永遠とかに憧れるんだよね。わかった? 霧島さん」
「あっ、はい。肝に銘じます」
「これで南城君と結婚してくれそうだね」
「はい」
光輝がこんなふうに自然体で話しているのを見て、私は不思議な気持ちになった。これも森村さんが醸し出す雰囲気の寛容さ故なのだろう。私と光輝は、すでに森村さんの人間性に惹かれているのだ。
私は再び視線を森村さんに向け、机上に置いたレコーダーの録音スイッチを入れた。
「お待たせしてすみませんでした。お話の続きを伺ってよろしいでしょうか」
「ああ、いいよ」
この和やかな雰囲気に、すっかり油断していた私は、次の一言で凍りついた。
「美緒は、俺の子供ではないんだ」
「えっ?」
この瞬間、すべてが根底からひっくり返った。それはさらなる驚愕の扉を開けた。
「子供ができにくいかもしれないというのは、確かにあったけど、そもそも夫婦生活などなかった。ただ記憶をなくすほど、泥酔する時がよくあって、自宅のベッドで目が覚めると、隣に麻美がいることがあった。そんなタイミングで、罪悪感のない顔をして、妊娠を告げられた。でも騙されるわけがないよね。生まれた美緒を見て自分の子供ではないことくらい、すぐにわかった。だから、抱いてあげることができなかった。恐怖でしかなかった。一応、美緒の口腔内の粘膜を、親子鑑定の会社へ送って調べてもらったけど、もちろん親子の可能性は0%という結果だった」
「すみません。私、かなり混乱しています」
「次女の奈緒も同じ。やはり俺の子供ではなかった。たぶん教祖様の子供じゃないかなと思う」
「教祖様というのは……」
「レイとのことを麻美に目撃された時、彼女が出てきた白いビルはある宗教団体のものだったんだ。麻美には高校時代、空白の一年があるのは、大島さんから聞いたと思うけど、どうやら教団のしきたりで、女性は十七歳で何かの儀式があるみたいなんだ」
「調べたんですか」
「うん。さすがに、そこは探偵に調査を依頼した。はっきりわかった方がいいから。霧島さん、ライターとして、今度はその宗教団体を取材してみるといいよ。全国に十七歳で空白の一年を持っている女性がいたら、きっとそれだから。どうやら出産したマタニティ・クリニックも教団の運営らしい。不妊治療や体外受精も行っているから、麻美は何とかしたんだと思う」
「麻美さんのご両親は、そのことを知っているのでしょうか」
「たぶん知っている。家族ぐるみで信者だから。美緒がわずか三歳で奈緒を殺害したことが本当だとしたら、恐ろしくなって、俺に押しつけたんだと思う。その後も我関せずという態度だった。俺は子供に触れることができなかった。その愛情不足が美緒をサイコバスにしたのであれば、大いに反省しなければならないと思う」
「麻美さんのこの嘘が、始まりだったということでしょうか」
「いや、それなら脅迫状だと思う。それを麻美の仕業だと思い込んだところから始まった気がする。だから麻美が自殺した後も、脅迫メールが続いた時は愕然とした。冷静になって考えれば、最初に目撃された時に、麻美がとっさに写真を撮れるようなタイミングはなかったんだ。動揺していたから、そんな簡単なことに気がつかなかった」
「他に心当たりはないんですか?」
「思い当たらない。俺のことを、こんなにも知り尽くしているのは誰なんだろう。いつも、タイムリーな一言が英語で記されている。最初に封書で届いたものには、『Real Face』と書いてあった。たぶん、オマエの素顔は同姓愛者だと言っているんだと思った。レイが死んだ時は『Endless Love』。その後、社会人になったと同時に、封書ではなく、メールに写真が添付されるようになった。麻美との結婚が決まった時は『Stray Sheep』。由衣と出会った時は『Debt』借金。千春との時は『Abortion』妊娠中絶。彼女たちを中傷するような内容だった。その他にも『Smily Face』とか、俺とレイしか知らないようなものもあった。最新は『Unemployment』失業。ここまでくると笑えるよね」
「プライバシーを知り尽くしているなんて、完全にストーカーですね」
私はひとつずつメモを取りながら、内容についても詳しく聞いた。
「結局、始まりは、俺がレイとの恋愛を隠そうとしたことにある。常識や道徳という壁をぶち破ることができなかったからだ。千春にそう伝えて欲しい」
「レイさんとのことを、千春さんに話してもいいんですか?」
「もちろん。全て話してもらって構わない。千春には知る権利がある。麻美からの長年の呪縛を解いて救ってくれた……千春にきちんと謝りたかった。もう会ってはもらえないんだけど」
森村さんが会いに行けば、千春さんは拒否しないような気がした。
「私から今回のことを報告すれれば、千春さんの頑なになっている気持ちも変わると思います。会えるような気がします」
「ありがとう。千春には困ったことがあったら、遠慮しないで頼ってほしい。望むなら、いつでも裁判で証言してもいいと思っていると伝えてほしい」
「わかりました。森村さんのお気持ちは伝えます」
「この報告書はもらっていいのかな」
「はい」
「ちなみに事実と、ふたつ違っている所がある」
「はい」
「由衣の家から月々借金を返してもらってはいない」
「わかりました。工藤さんの隣人の話ですね」
「それと中川さんの話」
「はい」
「由衣も、千春も、前から俺のことが好きだったというのは違う。中川さんの紹介で彼女たちは初めて俺を知った。これは間違いない」
「そうなんですか」
「二人とも連れてこられた感じだった。俺が子供を抱えて大変だと思って、中川さんがお節介を焼いてくれたと受け止めた。結局、由衣も、千春も、子供ありきで再婚して不幸にしてしまった」
「彼女たちが美緒ちゃんのことを、相談していたら結果は違いましたか」
「もちろん。そうしてくれたら、俺も一緒に考えたし、最悪の選択をする前に彼女たちを逃がしてあげることができたかもしれない。いや、詭弁だな。ひとりで抱えきれなかったから、彼女たちに母親を求めた。結果的に、結婚して利用しただけだったのかもしれない。俺が逃げていたから、彼女たちが向き合わなければならなかった。全ての責任は弱い俺にある。誰のせいでもない。悪いのは俺だよ。彼女たちには申し訳ないことをしてしまった。後悔しても遅いけど」
それまで黙って聞いていた光輝がはじめて口を挟んだ。
「自分を責めないでください。人間なんて誰でも弱いと思います。特に男なんて強がっているだけで、見かけ倒しもいいところです。だから偉大な母性を持った女性がいる。助けを借りてもいいし、頼ってもいいと思います。反対に男は守ってあげればいい」
「私も同感です。由衣さんも千春さんも、森村さんの苦悩や寂しさは、察していたと思います。放っておけなかったから、側にいることを望み、反対に側にいてほしかったのだと思います」
「君たちは、きっと、そうしてきたんだね」
やさしく微笑んだ森村さんの瞳は、とてもきれいだった。いつの間にか陽は傾いていた。西の空がうっすらと赤く染まっていた。
その後、森村さんは都心で美香子さんと会う約束をしていると、車で私たちを家まで送ってくれた。昨夜ほとんど寝ていなかった私は、いつのまにか後部座席でうとうととしていた。森村さんの声がしていた。
「この世の中って、つくづく男と女しかいないんだなって思う」
この問いかけに光輝はなんと答えたのだろう。答えを聞けぬまま、私は深い眠りに落ちていった。
* * *
森村は銀座のレストランで美香子と会っていた。珍しく、二人ともお酒を飲んでいなかった。森村は先刻、エリから聞いた事実を包み隠さず話した。
「俺はずっと美緒から目を背けていたから、そんなにも異常な行動があったなんてわからなかった。小学校を退学したのも、校庭の花をむしってしまったからと聞かされていただけなんだ。こんな大事なことなのに、どうして、由衣も千春も俺に言ってくれなかったんだろう。ひとりで悩んで抱え込む必要なんてなかったのに」
「ジュンの実の子供だって思っていたから言えなかったのよ。人格を否定するような後ろめたさがあったんじゃない? サイコパスか。難しい問題ね。この頃、その類の事件が頻発してるもの。もし脳の障害だとしたら、矯正教育は有効なのかって考えてしまうわ」
「そうなんだ。人間としての尊厳なのか、犯罪抑止なのか。美緒がこのまま成長して、また人を殺していたかもしれないと思うと足が震える。血はつながっていなくとも、戸籍上は実の父親だったんだから、世間の非難を浴びて当然だった」
「千春さんは自分を犠牲にして、将来の不安からジュンを守ったんじゃないかしら」
「もしそうだとしたら、本当に申し訳ない。俺は事件後、警察に対して、ひたすら育児疲れだと繰り返しただけだった。そして、結局は彼女の希望を受け入れて、離婚届に判を押した」
「それが彼女の希望なんだから仕方ないわよ」
「霧島さんにお願いしたんだ。千春の減刑のために裁判で証言してもいいって」
「千春さんのために何かできるといいわね。でも、今まで曖昧だったことが、ずいぶんとわかった気がする。これなら心の整理をつけていくことができるんじゃない?」
「ああ。千春に依頼されて事件を取材しているライターだっていうから、どれだけ痛いところを突かれて、問いつめられるのかと思って会ったんだけど……なんか救われたんだ。話を聞いてもらって、苦しかった胸の内を見せて、最後なんて慰められていた」
「ジュンが、そこまで心を開くなんて、めずらしいわね」
「彼女に好感が持てた。社会に毒されていない感じかな。報告書を見せてもらって真摯に仕事をしてると感心した。しかも、ものすごい純真な目をしてじっと俺を見るんだ。この子だったら、包み隠さず話してもいいかなと気を許してしまった」
「タイプだったとか?」
「それを言うなら、霧島さんのカレシの方」
「えっ?」
「カレシ、南城光輝君ていうんだけど、転勤でこっちに住んでいるらしくて、彼女が心配でついてきてた」
「やだぁ、可笑しい。笑える。女を不幸にする男、森村淳に彼女を食われたらどうしようって思ったのね」
「冗談抜きで、そうだった」
「可愛いーっ」
「離れた席で、俺のことを偵察してたんだけど……正直、彼の顔を見た瞬間、凍りついた」
「何で?」
「レイに似てるんだ」
「えっ?」
「じーっと俺を見ていたんだ。最初はそんな事情を知らないから、まさかって自惚れて、その気になって、どきどきした。そのうちに、だんだん睨むような表情になってきて、口を尖らせて、ふくれっ面になって。それがまたさらにレイにそっくりで、ちょっと恍惚となった。昔を思い出した……でも、あまりに突き刺さる視線に、いや、ちょっと待てよ、これは違うぞって」
「オレの霧島さんを気安く見るんじゃねーよって?」
「まさに、その通り」
「おもしろーい。立ち合いたかった。見たかったわぁ」
「その後、彼も席に呼んで、一緒にレイのことを聞いてもらった。二人ともいい子で目をうるうるさせて俺の悲恋話を聞いてくれていた。最後に、南城君が言ってくれたんだ。人間なんて誰でも弱い。特に男なんて強がっているだけで見かけ倒しもいいところだって」
「その通り」
「だから偉大な母性を持った女性がいる。助けを借りてもいいし、頼ってもいい。反対に男は守ってあげればいいってね」
「なかなか達観した子ね」
「ああ。霧島さんにプロポーズしてるって言ってたから、もうすぐ二人は結婚するんだろうな。きっと可愛い赤ちゃんが生まれる。抱かせてもらいたいな。なんて、別れ際、柄にもなく感傷的になってしまった」
「その南城君に、レイを見ているからよ」
「えっ?」
「やっぱり、ジュンは霧島さんにとって、危険人物だわ」
「なるほど……そうとも言える……」
「赤ちゃんかぁ……実はね。私、ついに妊娠したの」
「えっ、ほんと?」
「三ヶ月に入ったところ」
「美香子、おめでとう。よかった。結婚して五年も経つから、実は心配してたんだ」
「その間に、しっかりと高齢出産に突入したけど」
「じゃあ、まずは美香子の赤ちゃんを抱っこしないと」
「夫がやきもち焼かない程度にね」
「やさしくて、いいご主人だよな」
「年下で、頼りなくて、イケメンじゃないけどね」
「すごくいい奴だよ。努力家だし、律儀だし。母子家庭で苦労して、バイトと奨学金で医学部卒業した奴なんか周りにいないじゃん」
「確かに金持ちのおぼっちゃまばかりだものね」
「こいつなら、美香子を幸せにできるって思ったよ」
「でも女の子が生まれたら心配かも」
「その時は俺が嫁にもらってやるよ」
「いやよ。第四の女にしたくないもの」
「だよね」
森村は生命の誕生に歓喜していた。誰も見ていないなら、美香子の腹部を抱きしめたいくらいだった。彼の周りが動き始めていた。彼の中で何かが変わり始めていた。レイが死んでからは、ずっと闇の中だった。闇はどんどん深くなることはあっても、明けることはなかった。しかし、少しずつ光が射してくるような予感があった。
「体を冷やさないように温かくしなよ。つわりがひどかったら、無理しないで仕事は休んだ方がいい」
「私、これでも医者なんですけど」
「そうだね」
森村は美香子を包み込むように見つめた。レイを失った時、ずっと側で支えてくれた最高の親友だ。彼は改めて美香子の幸せを祈った。
罪を背負う女・千春
私が札幌に戻った二日後の火曜日、千春さんの第一回公判が開かれた。私は傍聴したかったが、どうしても仕事を休むことができなかった。そのため勤務の後、担当弁護士の大堂先生を訪ねて大筋の流れを聞いた。先生は千春さんが私に調査を依頼していることを知っており、快く対応をして下さった。今回の事件は千春さんが素直に罪を認めて、深く反省していること、特に大きな争点もないことから、次回公判で結審し、判決という流れになるだろうとのことだった。犯行動機が本当に育児疲れであったのか、それとも子供が邪魔だったという身勝手さなのか。どちらに解釈されるのかによって量刑は大きく変わる。その判断は難しく、年齢や性別によっても温度差がある。大堂先生は執行猶予に持ち込みたいとのことだった。千春さんは美緒ちゃんの問題行動については、まだ法廷で語っていない。私は森村さんに出廷する意志があること、必要であれば美緒ちゃんの問題行動の話を証言として提出できる用意があることを伝えた。
今の時点では美緒ちゃんが妹を殺害した可能性があることを証言として法廷に持ち込みたくはなかった。彼女が亡くなっている今、それを公にはしたくない。あまりにデリケートな問題だ。美緒ちゃんが本当にサイコパスであったのだとしたら、成長と共に殺人願望を膨らませていくことは考えられる。言い方をかえれば危険人物だ。しかし、どんな人間にも生きる権利はある。一方で矯正教育が成功するとは限らない。それでは誰が暴走を止めるのか。誰が一線を越えないように見張り続けるのか。誰が全力で殺人を防ぐのか。不可解な殺人事件が起きる度に世間は親を責める。育て方が悪い。愛情不足だ。劣悪な環境のせいだ。親は何をやっていたのだと。しかし、誰もがその親の立場になる可能性はあるのだ。
そして、私が千春さんと拘置所で再会できたのは公判から三日後の金曜日だった。やはり、時間は三十分。挨拶もほどほどに本題に入らなければならなかった。
「美緒ちゃんを殺してしまった動機は、恐怖ですね」
「なぜ、そう思いましたか?」
「美緒ちゃんの口から、赤ん坊だった妹を殺害したと聞かされたのではないですか?」
「はい」
「本当のことでした。麻美さんの母親が目撃していました。まだ彼女が三歳の時です。将来的に美緒ちゃんの殺人願望を止められる自信がなかったのですね」
「その通りです。この一年間、彼女の行動はエスカレートしていきました。小学校四年生の女の子の行動ではありませんでした。私たちもいつ殺されるかわからない。頭をハンマーで殴られている夢を見てうなされることもありました。近い将来、罪のない他人に危害を加え、犠牲者を出すくらいなら、いっそ私の手で殺そうと思いました。いえ、それは建前ですね。私は一生、世間の非難を浴びて生き続けることが嫌だったのでしょう」
「法廷で真実を言うべきではありませんか」
「私は自分の量刑を軽くするために、美緒ちゃんを悪者にしたくないのです。淳さんのかけがえのない娘であったのには違いないのですから」
「美緒ちゃんの問題行動の数々を供述せずに黙っていたのは、やはり森村さんを気遣ってのことでしたか」
「危険人物だから殺してもいいということにはなりません。言い訳をしたくないのです」
私は千春さんを早く解放してあげたくて語気が強まった。
「美緒ちゃんは、森村さんの実の子供ではないんです!」
「えっ?」
「森村さんが語った始まりを全てお話します」
「えっ? 彼に会ったんですか」
「すみません。約束を破りました。取材費はお返しします。ですから千春さんに伝えて欲しいと言われた森村さんの過去を、お話してよろしいでしょうか」
「はい。聞かせてください」
私はレイさんとの恋愛を中心に、森村さんの身に起こったあらゆる事象を全て伝えた。千春さんは両手を前に組んだまま、じっと聞き入っていた。
「淳さんが美緒ちゃんを嫌悪しているのはわかっていました。それは行動に問題があったからではなくて、血がつながっていなかったからなんですね。それで納得しました。しかも、レイさんという恋人がずっと心に棲み続けていたなんて。彼の瞳が忘れられない誰かを追っているような気はしていました。でも、それは最初の奥様なのではないかと思っていました。見当違いもいいところです」
「森村さんはレイさんとの関係を隠そうとしたことが、始まりなのだと、おっしゃっていました」
「そうですか……人生って思い通りにいかないものですね」
「森村さんは千春さんに会って謝りたい。困ったことがあったら、遠慮しないで頼ってほしいと言っていました」
「本当ですか? そんなふうに言ってくれるなんて、うれしいです」
「裁判で証言してもいいと」
「それだけはできません。彼をさらし者にしたくないんです。それに逆です。謝らなければいけないのは私の方です。私にも彼に言っていない秘密がありました。お互い様です」
「間違っていたらすみません。中絶したことがあるということですか?」
「どうして、それを」
「森村さんに届いた脅迫メールに書かれていたそうです。千春さんと付き合い出した頃だそうです」
「そんな。私は誰にもこの事は言っていないのに」
千春さんは天を仰いだ後、がっくりとうなだれた。
「実は過去に二回中絶をしたことがあります。一度目は高校生の時。新卒で赴任してきたばかりで人気のある先生でした。彼のお嫁さんになるのが夢で、そういう関係になりました。しかし、妊娠がわかると頭を下げられ中絶費用を渡されました。大学時代からつき合っているカノジョがいたみたいです。私は逃げるように卒業して札幌に出てきました。短大時代にはH大の医学部の学生と知り合い交際を始めました。そしてまた、結婚を夢見て妊娠、中絶して終わりました。バカですよね。同じことの繰り返しです。私、きっと捨てられる女なんです」
「そんなに、ご自身を卑下しないでください」
「いいえ、その通りなんです。二度目の中絶後、経過が悪く炎症をおこして入院もしました。子宮内膜症もあって子供はできにくいかもしれないと医師に言われました。自業自得です。だから、もう結婚は無理かもしれないと思っていました。男性不信になったというのもありました。そんな時に森村さんを紹介されました。うちは母子家庭で金銭的に苦労してきたので、母親がいつも金持ちと結婚しろと言っていました。そんな打算的な母親に嫌悪感を抱きましたが、気がつくと、その通りに男性遍歴を重ねている自分がいました。森村さんは母が二つ返事で結婚を認めた完璧なエリートでした。しかも美緒ちゃんがいたので、妊娠というプレッシャーも感じなくていいと思いました。その時点でフェアじゃないですよね。だから罰が当たったんだと思いました。私は子供をすでに二人殺しているんですから。この事を淳さんに伝えて下さい。こんな女ですと」
女は悲しい。相手の男は、妊娠中絶によって、生まれてくるはずの命を抹殺したという罪悪感を持ち続けることはない。心にも肉体にも傷を負い、罪を背負って生きていくのは女だけなのだ。
「今、美緒ちゃんに、手をかけてしまったことを後悔していますか?」
「後悔、すべきなのでしょう。しかし、言うなれば覚悟でした」
「覚悟ですか?」
「本当は美緒ちゃんを殺して自分も死ぬ。心中をしようと思いました。でも見届けたかったんです。淳さんの幸せを。始まりを聞いて安心しました。私は彼の悪しき因縁を経ったんですね。少しは淳さんの力になれたみたいです」
「彼を愛しているのですね」
「シンパシーみたいなものかもしれません」
「どうして、彼に一方的に離婚届を渡したんですか?」
「えっ? 私は離婚届を用意していません」
「離婚されましたよね」
「はい。書類は中川さんが持ってきたんです。淳さんと二度と会わないという覚悟があるなら離婚届に記入しなさいと。このままでは、淳さんが会社を辞めさせられるって。慌てて署名して彼女に渡しました」
「中川さんは、すでに記入済みのものが、千春さんから郵送されてきたので、それを森村さんに渡したと……」
「いいえ。それは違います」
「森村さん宛の手紙を、中川さんに託しませんでしたか?」
私は手元の報告書の一部を読み上げた。
「内容は、もう二度と会わない。会いにもこないでほしい。待っていられても困る。刑期を終えても森村さんの元へは決して戻らない。縁を切りたい」
「いいえ、そのような手紙は書いていません。実際、どんな顔をして会えばいいのかわからなかったため、面会は拒否しましたが」
「最後にもう一点、確認ですが、森村さんと出会ったきっかけは」
「中川さんから紹介されました」
「千春さんが好きになって、紹介してくれるように頼んだのでは?」
「いいえ。違います。あっ……私、中絶した過去を中川さんにだけは言っていました……」
私はこの時、全てを理解したのだった。この取材をはじめた初日に、ノートの一ページ目に書いた相関図をもう一度見た。一目瞭然だった。私はキーマンと位置づけて、◎をつけていた。彼女は森村さんのことを知り尽くしている。私は推測と前置きをした上でそれを千春さんに話した。そして後日、今回の調査報告書をまとめて弁護士の大堂先生へ渡し、それをもって調査終了とすることを伝えた。千春さんは私に深々と頭を下げた。
「霧島さん、今回は本当にありがとうございました」
「いいえ。どこまでお役にたてたのか……」
「私、本当は淳さんの真の姿、本心が知りたかったのだと気がつきました。それがわかってよかったです。心から感謝しています。霧島さんの著作が目に止まったのも、偶然ではなく必然だったと今は思います。いろいろと調べていただかなかったら、あまりの罪の重さに押しつぶされて、反省することすら、ままならなかったような気がします。取材費はそのまま受け取ってください」
「わかりました。ありがとうございます」
「時間です」と刑務官から静かに声がかかった。刑務官の配慮に感謝し面会を終えた。
* * *
森村は遥香と会っていた。これが最後だと思った。彼は喫茶店に入ると神妙な面もちで座り、両手を組んだまま、何と切り出せばよいのかと考えていた。遥香はすぐにその態度から二度目の別れを察した。この先読みできる勘のよさが遥香の利点であり、物わかりのよすぎる大人な部分が欠点でもあった。だからこそ、森村は慎重に言葉を選び、視線を下に向けたまま、レイとのことを包み隠さず話した。
遥香の表情には驚愕も憎悪も落胆もなかった。沈黙したまま萎れた花のように頷いた。
「ジュンが載ったファッション雑誌、こっそり買ってたの。今でも持ってる。一緒に写っていたのが、そのレイ君だったのね」
「俺に幻滅しただろう?」
「二十年近くも秘密にしていたのに、どうして言う気になったの? 私を遠ざけるため?」
「もう秘密でもないから」
「私が情報をばらまくかもしれないわよ」
「それでも構わない。どうせ千春の殺人事件のことも広まっているんだろう」
「そこそこは」
「もう失うものはないよ」
「じゃあ、秘密をばらして欲しくなかったら、私との関係を続けなさいって、脅してもだめってことね」
「遥香はそんなことができる女じゃない」
「女は変わるわよ。恋のためなら残酷になれる」
「俺と中途半端な関係を続けたい?」
「だって今の私には何にもないの。存在しているのかもわからないような毎日。ジュンと再会して自分を思い出したの。生きていることを感じたの。次に会えるという希望にすがることで、夫の暴力にも耐えられた……」
「遥香には守るべき子供がいるじゃないか。だからまずは旦那から逃げよう」
「えっ?」
「人生は一度きりしかない。我慢しないで迷わず逃げろ。耐えたりしないで暴力から逃げろ。俺はきちんと逃げ出した遥香だったら、いつでも友人として助ける」
「確かにジュンを一時的な避難場所にしてた」
「俺も同じだよ。でも、これでは今までと変わらない」
「最後の奥さんとよりを戻す気なの?」
「いや。俺はレイしか愛せない。千春にやさしくしてあげることはできても、それは上辺だけの演技にすぎない。また傷つけてしまう。ただ、もう一度、千春とは会わないとだめだとは思っている」
遥香は意を決したように立ち上がると森村の顔をじっと見つめた。
「今度は本当にお別れね」
「ごめん。何もしてあげられなくて。傷つけてばかりで」
「謝らないで。会えてよかった。さよなら」
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