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『係恋』第1回

  あらすじ
 札幌在住のライター霧島エリは、エリート会社員・森村の三番目の妻であり拘置所にいる千春から仕事を依頼される。前妻二人の自殺の真相と、どうして自身が継子を殺害するに至ったのか。エリは取材のために恋人の光輝が暮らす東京へ向かう。光輝とは高校時代に犯罪の隠蔽を通して出会っていた。エリは当初、森村に疑念を抱いていたが、次第に前妻たちの抱えていた問題や謎が明らかになる。そして、殺された継子の常軌を逸した行動。なぜ森村は愛のない結婚を繰り返したのか。エリは千春との約束を破り森村に会いにいく。心配した光輝も同伴していた。光輝は森村の忘れられない恋人・レイにそっくりだった。

  プロローグ・霧島エリ
 二年前、『ハンディキャップのある子供を生んだら不幸だ』(すずらん出版)というノンフィクション本を出した。私の処女作だ。すずらん出版は、札幌にある小さな出版社で、元新聞記者だった沢崎社長が自ら執筆、編集、校正、営業までをこなしている。私はライター業の師匠でもある夏目啓太郎氏に頼み込み、沢崎社長を紹介してもらった。初版本は五十部。札幌市内の書店に、私自らが飛び込み営業に回り、ひたすら頭を下げて何とか書籍コーナーの片隅に置いてもらった。一見して誤解を受けやすいタイトルだ。皆、タイトルを見て眉間に皺を寄せた。私は慌てて「今の日本の法制度、支援体制であるならばという問題提起をしたノンフィクションです」と言い訳のような説明を付け加えた。私は当時二十五歳で未婚だった。今もだが。実際に出産と育児を経験していない若輩者が、この題材を扱っていいのかという葛藤もあった。しかし、取材をした方々に逆に励まされ、後押しをしてもらい、一冊の本になった。そして、彼女たちの意見をもとに、このタイトルに決めた。
 その中のひとりであるMさんは当時をこう振り返った。ショックのあまり泣き暮らす彼女に対し、夫はやさしい言葉をかけるどころか、面倒くさいと言わんばかりの顔をして離れていった。その非情さに、二人の愛はまがい物だったと気づかされる。そして離婚。母子家庭となった彼女に対し、親たちは手を差し伸べてはくれなかった。月に一度でもいいから助けて欲しいと頭を下げたが、自分たちの日常生活を優先したいと断られた。愛情どころか憐憫の情すら得られなかった。そこでもまた存在の軽さに傷つく。親にまで見放されている以上、友人はおろか誰も頼ることはできないと覚悟を決める。看病と療育をひとりで背負い込む。仕事は制限され、すぐに契約を切られる。公的に支給されるのはわずかな給付金のため、生活は困窮する。特定疾患でなければ福祉制度も受けられない。まさに負のスパイラルだ。精神的、体力的につらいところに、金銭的負担、将来への不安がのしかかる。追いつめられていく。この上なく愛おしい我が子。言葉が話せない。歩くこともできない。もしも自分が死んだら、誰が育ててくれるのか。悲観して、何度も心中することを考えたという。日本は安心して子供を生める国なのだろうか。全面的なサポート体制が整っているのだろうか。そんな不安が出生率低下に結びついていないだろうか。そんな内容だ。
 話は長くなったが、この本を読んで感銘を受けたという読者から、ぜひとも会いたいという連絡が出版社に入った。正確に言えば、中川さんという女性を通して、その友人が会いたがっているので、時間を作ってほしいという依頼だった。
 二月某日。私はその女性に会いに行くこととなった。当日の札幌は氷点下の気温ではあったが、雲ひとつない青空が広がり、眩しい陽光が白い雪に降り注いでいた。強烈な光が、暗闇のように、何も見えなくしてしまう。この時点で、私はすでに眩惑されていたのだろうか。
 ここから、私は苛烈さを秘めた人間模様、さまざまな愛の形と出会うこととなる。

  第三の女・千春
 灰色の重厚な鉄の扉が正面に立ちはだかっていた。左脳側の壁で、古いエアコンがカタカタと小さな音をたてていた。それは私の武者震いのようだった。この部屋に入った瞬間から、私はこの異様な空気に圧倒されていた。刹那、ドアは錆びついたような鈍い音をたてて開いた。その向こうから、彼女がすーっと滑るように姿を見せた。その軽やかな身のこなしは、女王のようでもあり、幽霊のようでもあった。緊張というよりは、畏怖のような感情が込み上げた。私は椅子から立ち上がると、彼女の顔を正視することができず、その場を取り繕うかのように、深々と頭を下げていた。まずは先入観を払拭したかった。
「はじめまして。フリーライターの霧島エリです」
「高橋千春です。今回はお時間を作っていただきまして、本当にありがとうございます。来ていただけるか不安でした。どうしても、霧島さんとお会いしたかったんです」 
 千春さんは礼儀正しく、やさしい口調で挨拶を返してくれた。私は、その穏やかな声に安堵し、ようやく顔を上げた。彼女はスッピンだったが、その肌は白く艶やかで、とても美しい女性だった。真っ直ぐに見据えた目の輝き。彼女は、まだ萎れていない。
「ご友人の中川さんから、ご連絡をいただいた時は、正直言って驚きました」
「こんな場所にお呼び立てして、申し訳ありません」
「いいえ。こちらこそ。私の本を読んでいただいたそうで、ありがとうございます」
 実のところ、自著に対して感銘を受けたなどと言われ、私は舞い上がっていた。私の思いや意見に共感してくれた人がいたのだと。好意を示されると、こちらも自ずと好意的になる。しかも私と同じ二十七歳だった。彼女は長い髪を後ろで束ね、地味な黒色のスエットを着ていた。細面の小顔に、はっきりとした目鼻立ち。彼女は一見して華のある女性であり、この陰湿な場所に似つかわしくなかった。対極にある世界に、無理矢理放り込まれたような違和感だった。ここの密閉された空気には、あらゆる負の要素が蔓延している。壁にある染みは、夜な夜な姿を現し、怪しく囁き続ける魔物のように見えた。現に今も粘りつくような監視の目が、すぐ側から注がれている。その威圧感は、私の指先を異常なほどに冷たくした。
 そう、ここは札幌拘置支所だ。
 私は拘置所という場所に初めて足を踏み入れた。刑務所とは同じ敷地内にあり、当然のことながら、市井と隔絶するように高い塀で囲まれている。数日前に、友人の中川さんから、千春さんの居場所を聞かされた時は耳を疑った。しかし、私はすぐに都合よく、慰問という言葉に置き換えることができた。過酷な環境の中で日々罪悪感と闘う女性が、私と話をしたがっている。何かを話すことで、精神的負担が少しでも軽減するのであれば、それは読者への恩返しだ。その反面、不謹慎ではあるが、拘置所内を見学できるという好奇心を抱いたのも事実だった。しかし、この重い空気は、そんな邪念を一気に吹き飛ばした。私たちは、分厚く頑丈なアクリルガラスで隔てられている。
 刑務官が、ちらりと時計に目をやり、静かな声で言った。
「今から三十分です」
 私は教室で起立した生徒のように、指先をぴんと伸ばして、刑務官へ挨拶を返した。
「はい、わかりました。失礼します」
 私は一礼し、姿勢を正して着席した。刑務官はすでに手元でペンを走らせていた。私たちの会話を筆録しているのだろうか。そのとたん、私に緊迫感からくる迷いが生じた。それは単なる形式的なもので、この場だけという機密性のあるものなのだろうか。それとも、会話の内容は裁判などの証拠になり得るものなのだろうか。次々と浮かぶ疑問が、私の動悸を早めた。すでに、あまりの息苦しさに、いつもの偏頭痛がはじまっていた。偏頭痛と動悸は、交互に規則性を持って耳元に響いた。そんな私とは対照的に、向こう側の千春さんは、覚悟を決めたかのように凛としていた。自らの運命に絶望しているような焦燥感はなかった。私がライターとして、女性たちの姿を追い続けるようになって六年。瞳の奥に力を入れ、あらゆる涙を仕舞い込んだ女性たちの代弁者になりたいと思い続けてきた。だからこそ、千春さんに強く惹かれた。彼女は一体、何を語りたくて、私に面会を依頼してきたのだろうか。友人の中川さんから事前に聞くことができたのは、報道されている事件の概要と、簡単な人間関係だけだった。後は本人の口から聞いてほしいと、言葉を濁された。私が後込みすることを恐れたのだろうか。結局、真意は曖昧なままに、私は今こうして彼女と対面している。
 私が怖気づいていると、千春さんは察したのか、すぐに本題に入った。
「霧島さんに取材をお願いしたいのです」
 それは意外にも仕事の依頼だった。私は目を大きく見開いたまま瞬きを忘れていた。
「何の、取材でしょうか」
「どうして、私が罪を犯したのか」
 私は唐突すぎる難題に言葉が出なかった。犯罪の動機の解明を、他人に依頼するなど聞いたことがない。自身が混乱しているために、俯瞰した冷静な意見を聞きたいということなのだろうか。そうだとしても、取材をしたところで集めた情報や周囲の声が、どの程度正確なのかも微妙だ。人は物事を都合のいいように解釈し、話を無意識のうちに、ねじ曲げたりする。、印象や外見、好き嫌いによって、人間的な評価は天と地に分かれる。残念だが他人の見解など、やはり推論の域を出ない。結果的に自分のことは、自分がいちばんよくわかっているという原点に戻る。しかし、千春さんは、本気で私に取材を依頼しているようだった。その真剣な表情を見ればわかる。いわば懇願する目だ。
「去年、霧島さんの書かれた本を、大変興味深く読みました」
「ありがとうございます」
「報道されていることは、ほんの一部、上辺なのだと知りました。霧島さんのようなライターの方たちが地道に取材を重ね、社会の問題点と根底にある人間の心理を読み解いて掘り下げる。それをわかりやすく文章にして世に出す。さらなる問題を提起する。そうでもしない限りは、物事の真実が世の中に伝わることはないのだと思いました」
「そう自負しています」
「だから、霧島さんに、客観的な取材をお願いしたいのです。なぜ、私は罪を犯すことになったのか。女性の視点で見てほしいのです」
 女性の視点という言葉が、琴線に触れた。私は心なしか、前に乗り出していた。
「ご自身を犯罪に追い詰めた、その背景を知りたいということでしょうか」
「その通りです。どこからが始まりなのかを知りたいのです」
「始まり、ですか?」
「はい。私って、第三の女と呼ばれていませんか?」
「えっ?」
 私は不意をつかれ、とっさにごまかしてしまった。「まだ何も取材していませんので」
「そうですか」
 その質問の答えは「はい」だった。友人の中川さんから聞いたところによると、他にも同情的に「三人目の犠牲者」というものもあった。確かに千春さんは「第三の女」だ。
 千春さんはゆっくりと瞬きをすると、語気を少し強めて言った。
「前の奥様二人が自殺をした、本当の理由が知りたいのです」
「ご主人からは、何も聞かされていないのですか?」
「はい、詳しくは。大まかなことは、結婚前に中川さんから聞きました。最初の奥様は、下のお子さんを事故で亡くしたことによるノイローゼ。二人目の奥様は鬱病だったと」
 相次いだ前妻たちの自殺。そう、千春さんは「三番目の妻」だ。これが「第三の女」と呼ばれる所以なのだ。何やら謎めいてはいるが事件性はない。夫の森村じゅん氏は誠実な人柄で、周囲の人間の信頼も厚い。今回も含め、不幸が続いたことに、皆は相当な同情を寄せているらしい。そんな中、「三人目の犠牲者」が出た。それは千春さんではなく、十歳になる長女の美緒ちゃんだった。美緒ちゃんは、最初の妻との間にできた子供で、継母に殺害された。そう継母、目の前にいる千春さんだ。
 なぜ、美緒ちゃんを殺さなければならなかったのだろうか。
 この時、私は千春さんの真意が何となくわかってきた。おそらく、最初の妻の自殺が、この事件の始まりなのだ。
「奥様たちが自殺に至った、その背景を調べればいいのでしょうか」
「はい。以前、探偵に調査を依頼しようかと思ったことがあります。でも、淳さんに内緒でこそこそと嗅ぎ回るようで、抵抗がありました」
「その始まりについて、思い当たることがあるように聞こえますが」
「本当かどうか迷っているうちは、迂闊に口にしたくないのです。実のところ、取調べでも、今担当して下さっている弁護士の大堂先生にも、核心の部分はお話をしていません」
 核心の部分? 新聞などで報道されている動機は、ある意味において真実ではないということなのだろうか。今の発言は、隣に座っている刑務官が確実に筆録している。こんな発言をして、大丈夫だろうかと冷汗が出た。それなのに、私の口は、勝手に承諾の意思を表明していた。
「わかりました。亡くなられた二人の奥様たちの周辺を取材してみます」
「あと三分です」と刑務官が静かに口を挟んだ。
 千春さんは少し早口で結論づけた。
「取材費として、五十万円を用意し、資料と一緒に、中川さんに預けてあります。受け取って下さい。あと交換条件のようになってしまって、心苦しいのですが、淳さん本人には、決して取材をしないで下さい。もう離婚していますので、迷惑をかけたくないんです」
「わかりました。お約束します」
「よろしくお願いします。こんなことを頼めるのは、霧島さんしかいないのです」
 その時、「お時間です」と刑務官が立ち上がった。
 千春さんは一礼すると、刑務官に背中を押され、後方のドアから静かに退出した。私の気持ちは、三十分前と明らかに変化していた。何やら釈然としない。掴み所がない。
 私は面会室を後にすると、脇目も振らず出口へと向かっていた。この場から早く去りたいという気持ちが先立ち、拘置所に対する興味や好奇心は、とうになくなっていた。コツコツとブーツの靴底が、追われるかのように音をたてて逃げていた。完全に余裕を失っていた。建物を出た瞬間、暗所に慣れてしまっていた目が再び強い陽光に刺激された。ちかちかとした残像の痛みと闘いながら、一目散に門まで逃げ、ようやく広い敷地内を出た。寒風が容赦なく現実を頬にたたきつけた。私は白い息に言葉をのせて呟いていた。
 本当に彼女は殺人犯なのだろうか。
 その顔には、重い罪に押しつぶされて、煩悶している皺がなかった。いや、そう見えるのは、すでに共犯的な、歪んだ感情の交流があるからなのだろうか。
 これも私が過去に犯した罪の因果なのかもしれない。
 しばらくの間、私は拘置所前の細い市道に立ち尽くした。目映い太陽の前にそびえ立つ塀が、黒い要塞のように見えた。足を踏み入れることの恐怖。その外観は、やはり空虚でどこか威圧的だ。見上げる空は同じなのに、すでに隔絶された世界にいるのだと痛感した。
 私はその高い塀を左側に意識しながら、環状通に向かってゆっくりと歩き出した。そして、拘置所内の三十分間を振り返った。戸惑っている間に、千春さんのペースで話が進んでしまった。よく考えてから、仕事を引き受けてもよかったはずだった。しかし、非凡な演出に驚かされ、そのまま雰囲気に流された。確かに「第三の女」というキーワードはライター心を大いにくすぐる。札幌という地方都市での事件ではあっても、聞きつけたならば、動こうとする記者やライターはたくさんいるだろう。しかし、そう前向きにとらえても不安な気持ちが消えなかった。彼女は殺人犯だ。どんな事情があるにせよ、わずか十歳の少女から、輝かしい未来を奪った非情なる人間だ。実は途方もない悪女なのかもしれない。現に犯行前から、私への取材費を準備し、友人に託していた。全てが予定通りだとすると、今回の殺人も衝動的ではなく、計画的であった可能性がある。それならば、かなり印象は違ってくる。
 一月某日、札幌市白石区のマンションの一室で事件は起こった。森村(現高橋)千春被告(27)は、継子である美緒ちゃん(10)を浴槽に沈めて殺害。自ら110番通報し、駆けつけた警察官によって逮捕された。美緒ちゃんの死因は溺死で、病院への搬送前に心肺停止の状態。当日、夫は東京へ出張中で不在だった。警察の取調べに対し、千春被告は素直に犯行を認め、殺害動機を「私が殺すしかないと思った」と語った。
 これが事件の大まかな概要だ。当然、犯行動機は育児の悩みという報道のされ方だった。しかし、今、冷静に新聞記事を読み返してみると、彼女の供述は、「殺すしかないと思った」という結論だけに終始している。いずれにしても、今の段階では、憶測の域を出ない。私に助けを求めてきたということは、殺意が明確ではない。一方で計画的な殺人であった可能性は高い。いったい、どちらが本当の彼女なのだろうか。どのような精神状態で、いかなる観念に取りつかれていたのだろうか。何が彼女を凶行に向かわせたのだろうか。私はそこからスタートしなければならなかった。
 その日の夜、私は最初に連絡をくれた友人の中川恵子さんと会うことになっていた。今回は中川さんが行きつけのイタリア料理店に、小さな個室をとってくれていた。そこでならば他人の目を気にすることもない。今回はじっくりと話を聞かせてもらう必要があった。実のところ、彼女は相当なキーマンだ。相関図に書くと、森村氏と同じくらいあらゆる人物と線でつながっている。森村氏とはMデパートの同僚であり、二番目の妻の由衣さんと千春さんの上司でもある。中川さんは、千春さんにとって姉のような存在で、信頼のできる人なのだろう。そうでなければ、私への仲介などは頼めない。
 私は約束の十五分前に店へ着いた。案内された個室は、小さな蛍光灯がぼんやりと照らす、タイムカプセルのような狭い空間だった。暖色の灯りに促され、私は椅子の背もたれに体を預けると、否応なしに、待ち時間を埋めるべく、記憶を遡る旅に押し出された。その旅は青春時代に犯した罪への懺悔と、悔恨に他ならなかった。
 今から十年前、高校三年生の私は、フリーライターの夏目啓太郎氏と出会った。
     *          *          *
 エリが自宅前の道に差し掛かると、長身の男性が寒そうに腕組みをして立っていた。年齢は三十代後半くらいで、チェックのネルシャツにベージュのチノパン、ネイビーのジャケットを着ている。清潔感のあるファッションだ。側には彼のものと思われる使い込んだ自転車がある。エリは人にはさほど関心を持たず、視線を下に向けて通り過ぎようとした。しかし、低姿勢の声が静かに呼び止めた。
「すみません。霧島エリさんですね」
「はい……」
「フリーライターの夏目啓太郎と言います」
 啓太郎は素早く名刺をエリに差し出した。大きくて少しくたびれた手だった。エリはその種の人間に会ったことがないので困惑した。一体どこで、自分の名前と住所の情報を手に入れたのだろうか。一方で、第一印象は悪くない。人当たりの良さそうな顔つきで、ジャーナリスト特有の気むずかしい眉間の皺がない。エリはその名刺に手を伸ばした。啓太郎は優しく微笑みながら言った。
「その制服、セイジョですよね」
 セイジョというのは、市内にある私立の女子校だった。もちろん、エリが望んだわけではない。エリート志向の母親の強い勧めだった。エリは無言で肯定しながらも、学校名を言われた事で、さらに警戒し、名刺を受け取っていた手を素早く引いて後ずさりした。
 啓太郎はエリの様子を察したのか、自らも一歩下がって苦笑いをし、手を背後に組んだ。
「うちの母が、セイジョ出身なので、知っているだけです」
エリはすぐに家の中に駆け込めるように、玄関フードの扉に手を掛けた。
「何かご用ですか?」
「一年前、一千万円を拾って届けましたよね」
「えっ?……は、はい」
 エリは首を絞められたように息が苦しくなり、全身が一気に冷たくなった。
「よろしければ、その時の状況を教えていただきたいのですが」
「状況って……道に落ちていたのを拾って、届けただけですけど……」
「朝、登校するために、地下鉄の駅に向かって歩いていた。そうしたら、歩道の脇にバッグが落ちていた。中を開けてみると、何と大金が入っていた。で、すぐに交番へ届けた」
「そうですけど、どうして、そんなことを確認しているんですか?」
「パチンコ店であった強盗事件について調べているんです」
 エリの不安は的中した。なぜ風化したはずの事件が、今さら掘り返されようとしているのだろうか。激しい動悸が喉を押し上げた。しかし、動揺を悟られまいと平静を装った。
「ああ。その事件で盗まれたお金でしたよね。おかげで指紋まで採られました」
「結局、犯人につながる物証は出なかったんですよ。事件も未解決のままです。お金も全額戻って実質被害はなかったので風化した感じです」
「そうだったんですか」
 エリは初めて知ったような口ぶりだったが、報道されている情報は全て知っていた。動悸は肩まで揺らすほど顕著になり、胸を手で押さえ、その場にへたり込みたかった。
 啓太郎は、そんなエリの状態を知ってか知らずか、さらに畳みかけた。
「この強盗事件は謎が、とても多いんです」
「謎、ですか?」
 エリは逃げ込もうと用意していた手を扉から放した。
「ええ。それで何か手がかりはないかと、いろいろと聞いて回っているんです」
「私はお金を拾っただけで、事件のことは分かりません。警察に聞いて下さい」
 エリはあえて迷惑そうな表情を作り、啓太郎を遠ざけようとした。
「そうですよね。不躾ですみません。ありがとうございました」
 啓太郎はあっさりと引き下がった。そして、自転車にまたがると、エリに頭を下げた。
 エリはほっと胸を撫で下ろしたが、次の言葉で事の重大さを再認識することとなった。
「やっぱり最後の目撃者を探し出して、当たってみることにします」
「最後の目撃者?」
 啓太郎は少しずつ走り出していた。
「ええ。公園にいた男女が、唯一犯人を目撃しているんです。では」
「あっ……」
 こちらから質問を返す間を与えずに、啓太郎はその場を走り去ってしまった。エリは引き留めて確認したい衝動に駆られ、啓太郎の大きな背中をずっと見つめていた。
 最後の目撃者。
 あの時の嘘が、最後の目撃者という存在を位置づけてしまったのだ。エリの鼓動が体を伝わって耳元で響いた。まるで時限装置のように聞こえる。追い詰められている体だ。
 しかし、啓太郎の姿が夕暮れの中に消えてしまうと、それは余計な心配のようにも思われた。もう啓太郎と会うこともないだろう。その最後の目撃者と疑われないように、事件後、すぐに髪を二十センチ切って別人になった。それが綻びの原因になるとは知らずに。エリは手にしている啓太郎の名刺を見て、再び焦眉の念に駆られた。
 背後に隠れているカレの存在を見つけないで欲しい。
 エリは家へ入った。リビングからは大学生の姉と母親の笑い声が聞こえた。居心地の悪い家だった。エリは家族全員を向こう側の人間と感じた。敵とかではなく考え方が違う。家族に、そんな違和感を覚えている同志は、たくさんいるだろう。そもそも、そんなふうに思ってしまう自分が捻くれている。だから、この状況を別段に不幸だとも思わない。
 エリはすぐに二階の自室へ入りドアを閉めた。この空間だけが自由だった。カバンをベッドに放ると勉強机に向かって座った。そして、一番上の引き出しの鍵を開け、キルティングのポーチを取り出した。不安になると、その感触を手で確かめたくなる。
 拳銃がまだここにあることを、カレは知らない。
 エリは拳銃を取り出した。カラスの濡れ羽色をしたボディは、殺傷能力を誇示するかのようにずっしりと重い。エリはしっかりと拳銃を握ると立ち上がった。そして後ろを振り返った。壁には鏡が掛かっている。その中にショートカットのエリが映っていた。エリは鏡の自分に銃口を向けた。「バンッ」と、口で銃声を真似た。少しだけ不安が吹き飛んだ。
 
第2回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/n7548c3e160ba
第3回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/n876acb27c72c
第4回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/n7ecd528ae6b3
第5回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/ncf945382b87a
第6回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/n69f9fe284b5e
第7回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/na2ea25be3d43
第8回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/nea0778e69a84
第9回:https://note.com/beskal_eskal0101/n/nbc12a7b6ae3d
   


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