見出し画像

1-5 真と信〜ムーアのパラドックスから学べること〜英語における直説法(2)

前口上

 またしばらく間が空いてしまいました。肉体労働が始まり、生活はだいぶ厳しいです。貯蓄額の多寡と白髪の多さは反比例しますね。この文章を推敲している最中の東京第4レース(11日・土)で、単勝243倍出ました。3連単なら100円が1073990円で、1000円賭けてたなら1000万超えです。当然買ってません。はい。無駄話は置いておいて、今回は前回の続きなのもあり、さっさと本題に入ります。内容は連続していますが、いちおう節番号は(1-5)という風に分けています。英語における直説法、とタイトルに入れながらも直接の言及がありません。しかし、必ず最終的にはきちっとした説明をしますので、ご安心ください。

ムーアのパラドックスとは

 「何か命題における「真」以外の「真」があるのではないか」という謎を残したまま終えたのが前回でした。今回はその問いに、少し迂回する形を取りながら、答えてみたいと思います。
 いまから私が取り上げようとするのは、ムーアのパラドックスと呼ばれるものです。この説明には、1-4で行なった、事実、文、命題などの用語の定義づけを知識の前提としていますので、まだそちらをお読みでない方は、先にそちらをお読み下さい。

 ムーアのパラドックスというのは、文字通り、ムーアさん(George Edward Moore, 1873-1958)が提示したパラドックスです。このパラドックスを「ムーアのパラドックス」(Moore's paradox)と初めて呼んだのが、かのウィトゲンシュタインなので、彼経由でご存知の方もいると思います。
 では、具体的にどいういったパラドックスなのでしょうか。まずは、『論理と会話』(ポール・グライス著、清塚邦彦訳)の訳者注で述べられている説明を引用することにします。これはムーアのパラドックスがいかなる点でパラドックスであるのかを正確に記述している優れた説明です。最初から私が下手に説明を試みるよりも、引用してしまった方が良いでしょう。

これ〔ムーアのパラドックス——引用者〕は「P, but I don't believe that p.」「I believe that p, but not p」といった形の文の発話にまつわるある逆説的な事態を指す名称である。いま、今日が晴天であると仮定し、また、今日が晴天であることをある人物Kが信じていないと仮定しよう。その場合、もしもKが「今日は晴天だ」と言うならばそれは真なる発言になるだろうし、また「今日が晴天であることを私は信じていない」と言ってもやはり真なる発言になるだろう。にもかかわらず、Kがそれらの発言をひとつながりにして「今日は晴天だが、私は今日が晴天であることを信じていない」と言うならば、言われている事柄は真であるはずなのにきわめて奇妙な発言にならざるを得ない。これがムーアのパラドックスである。[...]

『論理と会話』85-86頁

 蛇足になる恐れがありますが、私なりにこの説明を噛み砕いてみたいと思います。
 まず、命題として現れている文が2つあることに着目します。便宜のため番号を振りますと、(1)「今日は晴天だ」と(2)「今日は晴天であることを私は信じていない」がそれです。これらはいずれもKの発話であるとされます。また、このK氏は「今日が晴天であること」を信じていないと仮定されています。ここで、なぜ「晴天であることを信じていない」のか、とちょっと不思議に思ったあなたは、「仮定法とは何か」の良い読者です。「晴天であることを信じていない」とはどのようなことかを想像してみましょう。あくまでひとつのサンプルとして、ストーリーをでっち上げてみます。Kをミュージシャンと仮定してみましょう。彼は、地下室スタジオに籠って10時間ぶっ続けてギターの録音をしているところでした。ふと天気について気になったとき、スタジオに入る前に、分厚い雲が空に広がるのを目にしていたことを思い出しました。そこで、「まさか今は晴れてはないだろう」と思った。このような理由によって、Kは「晴天であることを信じていない」のかもしれません。なお、この文章での「信じる」は「そうだと思っている」くらいの意味に捉えてください。
 何かを信じる、または何かの信念をいだく時点では、まだ頭の中にその文があります。何らかの発話を通して、考えは他者に伝わります。このとき、心の中で「今日は晴天でない」はずだという信念を抱いているKが、それでも(1)「今日は晴天だ」と言うことはありえることです。
 それでは、ここから(1)と(2)の文をそれぞれ命題として検討してみます。(1)は、引用中にもあるように、ここでは「今日が晴天」であるという事実が仮定されているので、真になります。一方、(2)についても、Kは「今日が晴天であることを」「信じていない」(が事実と仮定されている)のですから、(2)「今日は晴天であることを私(=K)は信じていない」という命題も真になります。ここで、(1)と(2)の文をつなげてみます。論理学的には、真である2つの命題をつなげた場合、その文は真になります。やや専門的に言えば、命題p, qが共に真の場合、pとqの連言(p ∧ q、pかつq)は常に真となります。
 こうして作られる文が「今日は晴天だが、私は今日が晴天であることを信じていない」です。ムーアのパラドックスにおける型となる文で説明すると、「P, but I don't believe that p.」の p がここでは「今日は晴天だ」にあたります。
 論理学的な図式では、共に真である命題(1)(2)の連言、この「今日は晴天だが、私は今日が晴天であることを信じていない(今日は晴天でない。かつ、私は今日が晴天であることを信じていない)」という命題は「真」になります。しかし、清塚氏も書いているように、これは「きわめて奇妙な発言にならざるを得ない」でしょう。ムーア自身はこの事態について、 absurd という語を用いています。absurd は「バカげた」という意味の形容詞ですが、「バカげた」という意味の他に「不条理な」という意味もあります。カフカやカミュなどの作品を指して、「不条理文学」などと言われることがありますが、この「不条理」も Absurd という語に関わります(なので、日本語で「バカ」というときのそれとは少しニュアンスが異なります。が、「不条理」よりも「バカげた」の方が日常的な言葉の使用に馴染んでいると思うので、私はここで absurd の訳語として「バカげた」を使いたいと思います 。
 以上が、ムーアのパラドックスの説明(の説明)です。

発話者と発話された文の関係

 ムーアのパラドックスの価値は、「今日は晴天だが、私は今日が晴天であることを信じていない」と誰かが述べたとして、たとえそれが真だとしても、「バカげている」ように感じられるのはなぜか、という問いをあぶり出したことにあります。
 ここで前節(1-4)で述べたことの確認をすると、私たちは文と命題の切り離しということをしました。命題というものは、文から抽出されうるものだという考えをそこでは取っていました。この考えはここでも維持されます。
 そして、文というものを考えるにあたっては、それがしばしば「発話される」ものであるという前提で考察してきました。なお、ここで「発話」というのは、必ずしも声に出される必要はありません。書かれた文であっても「発話された文」として扱います(「発話」は utterance の訳語です。utterance は話された言葉と書かれた言葉のいずれも意味に含みます)。なお、ここで初めてこの用語を出すことになると思いますが、そうした発話文の産出者を「発話者」と言います。この用語は、今後、この「仮定法とは何か」全篇で繰り返し出てきます。おいおい詳しく説明していきますのでここでは、ひとまず「発話する人が発話者」くらいに思っていただければ結構です。
 1-4で述べたことの確認を続けますと、命題は事実に照らされて、真か偽かのいずれかになります。命題は文の形を借りて表現される場合、直説法の平叙文で記述されます。ですが、この世界において発話される文が、すべて命題として扱えるというわけではありません。しかし、例えば生活における何気ない会話などにおいて、命題における「真」以外の「真」、あるいは“本当のこと”とでもいうべきようなものがある。それは何なのだろうか、という問題を提起して、前節(1-4)は終わっていたのでした。

 では、何気ない発話(もはや会話といってもいいでしょう)においてすら、「ある」と感じられる「“本当のこと”とでもいうべきようなもの」とは何のことなのかと申しますと、一言でいえば、それは話者の「信(信念)」なのです。
 「うわ〜、言葉遊びかよ……。えー。「真じゃなくて信でした」とか。ガッカリだよ……」とお思いになられたそこのあなた。これはたまたま音読みが重なっただけですので、どうか幻滅せずにお付き合いください。英語では、真は truth で、信は belief です。あくまで、この truth と belief (動詞「信じる」の場合は believe)の訳語として、私はふたつの「シン」を使っております。シンシンシンとか言って、最近の東宝映画かよという気持ちは私も十分察しておりますが、どうかお許しください。これは偶然なのです(とは言え、その偶然を利用してはいるのですが)。
 文と命題の区別、ということがここでも活きてきます。
 「真」の方は、命題に関わります。当たり前ですね。真か偽か言いうるものが命題なのですから。一方の「信」の方が関わるのは、発話された文の方です。わかりやすいようにまず図で示します。

発話文と命題文のちがい

 なお、この図式を1-4で見た、「2足す2は5だ」の例に当てはめると、次のようになります(「真偽」とあるところは、この場合「偽」になります)。

 ここで注目して欲しいのは、ふたつの「文」の関係しているものの違いです。命題文が関係しているのは、この世界における事実です。対する発話文の方は何と関係するのでしょうか。図で記してあるように、それは発話者です。では、その関係のありようとはどのようなものでしょうか。命題と事実の場合、関係のありかたは「真偽」ということでした。これと同じように、発話された文と発話者のあいだの関係のありようを考える必要があります。
 この点について、先の1-4でも少しだけ紹介した『言語と行為』の著者、オースティンが、一言で次のように言い表しています。曰く、「主張することは信念を発話的に含意するのである。([...]the asser­tion implies a belief.)」(強調は引用者による。『言語と行為』飯野勝己訳 83頁、原書初版49頁)
 オースティンのこの主張には、何かを「主張すること」(ここでは、これまで述べてきた「発話すること」と同義と捉えて問題ありません)が持つ、行為的な側面へのまなざしがあります。
 引用した一文のなかに、「含意」という耳なれない言葉が出て来ているのがわかります。この用語は、大変重要な語でこの先に何度も出て来ます。しかし、厄介なこととして、「含意」と人が言うとき、その使われ方に若干の揺れがあります。なので本節(1-5)では、オースティンの『言語と行為』における「含意」について絞って述べていきます。そのことに注意して下さい。
 オースティンがこの箇所で「発話的に含意する」(imply)と言うとき、論理学で言われる含意(論理的含意、entailment)と対比されています(動詞形ではentailで「論理的に含意する」と訳されています)。
 論理的含意について説明します。まず次の3つの例文に目を通してみてください。

1)Kim broke the vase. (キムはその花瓶を割った)
2)The vase broke.(その花瓶が割れた)
3)Kim moved the vase.(キムはその花瓶を移動させた)

『「英文法大事典」シリーズ0 英文法と統語論の概観』 76-77頁
このシリーズは、いわゆる "Huddleston & Pullum 2002"の邦訳

 論理学において、「XがYを含意する」とは、「もしXが真ならば、必然的にYも真である。」(同上)ということを意味します。
 この考えをもとに、例文を検討してみれば、まず1)の文が真であるとき、2)の文も真になります。しかし、1)から3)という真なる命題を引き出せるかと言えば、そうではありません。なぜなら、花瓶が割れる仕方には、「キムの投げたボールが花瓶にぶつかった」や「キムはテーブルクロスに失敗した」などの場合も考えられ、1)と3)のあいだには必然性がないからです。
 他の論理的含意の例としては、「猫はマットの上にいる」は、「マットは猫の下にある」を論理的に含意し(これはオースティン自身の例)、「菊田さんは女優だ」は「菊田さんは俳優だ」を論理的に含意します(これは、『まったくゼロからの論理学』89頁からの例)。論理的な含意というのは、あくまで文(ないし語)それ自体から推論しうることについてのみ、言われることなのです。
 このような論理的含意に対して、オースティンの言うimply(発話的に含意する)は話者を含んだ概念です。「主張することは信念を発話的に含意するのである」とあるように、文の内在的な意味ではなく、「主張する」という行為が含意するのです。しかも、含意されるものは別の真なる文(命題文)ではなく、話者の信念 belief だとされます
 ここで、ムーアのパラドックスで述べたところの文に戻ることにしましょう。「今日は晴天だが、私は今日が晴天であることを信じていない」という文は聞き手にとってなぜバカげたものに感じられるのか、という問題でした。この文は、命題として見た場合、確かに真だったのでした(ここで「え?」と思った方は、「ムーアのパラドックス」の説明のところを読み直してみてください)。しかし、発話文としての側面がまだ残されています。
 「今日は晴天だが、」から始まるこの文について、それを聞いた時に「バカげたものである」という感じが残るのは、この発話という行為に宿る含意(imply)という側面が蔑ろにされているのを私たちが感じ取るからなのです。平たく言えば、話者によって含意されたものであるはずの「信念」が「裏切られた」ように感じるため、「absurd(バカげた/不条理な)」という印象を受けるのです。

まとめと補足

 以上で、前節(1-4)で残した問いにはおおかた答えられたように思います。少し振り返ってみましょう。「私たちが何か言葉を発するとき、たいがいの場合は自分の発話が命題としてもちうる内容のことなどは考えてはいない。」と太字で強調していた箇所があります。発話された文と命題文は別です。私たちは文を発話するだけで、命題に直接関わるわけじゃない。けれども、自分が述べることについては「本当だ」と思って述べる。「真」には関わらないが、発話という行為において「信」と関わると本節では述べました。ただちょっと待って欲しい、という声が聞こえます。「普通に嘘つくときとか、あるんだけど」。確かにそうです。今のところ、「嘘」や「おべっか」の居場所がありません。ということで、若干の修正を施します。発話において含意される「信」とは、発話者が自らの述べる文に込められるようなものではなく、あくまで、受け手の側が、いわば話者に対する「信用」ないし「信頼」として、見出すものである、と。これについてもツッコミをしようと思えばいくらでも出来てしまうと思いますが、差し当たり、ここでの論点としては、私たちの扱う文とは話者の「信念」と受け手の「信頼」とがせめぎ合う場において見出されるもの、として理解しておくことにしましょう。

(以上、18枚/これまでの合計120枚) 

次回予告

 直説法の話どこいったんかいと言われそうなのですが、私としては直説法の話題から離れている、という考えはありません。うまく「回収」できるかどうかは、正直なところ自信がないのですが、この調子で続けます。
 次回は、このままオースティンからグライスまでの語用論の話をすべきか、元々1-4として念頭に置かれていた日本語と英語の「述定性」の度合いの違いについて述べるか、いずれかになると思いますが、前者が有力です。日本語と英語の「述定性」(これは私のさしあたりの造語です)のちがいについては、執筆中に近いトピックで書かれた本が出ました。佐藤良明氏の『英文法を哲学する」です。この第1章「英語文は真実を綴るので、その窮屈さから逃げる方法がいろいろ用意されていること。」が該当します。興味ある人は書店でもいいので読んでみて下さい。私は自分の論がなびいてしまうことを懸念して、買ったはものの読んでいません。参考文献を見る限り、きっと私の方がディープに書けるんじゃないかと、不遜を承知で意気込んでおりますが……。

 公開する前に第1回の日付をみたらちょうど1年前でした。早いですね。

参考文献

  • オースティン, J. L.『言語と行為』飯野勝己訳、講談社学術文庫、2019年

    • 及び、John Langshaw Austin “How to Do Things with Words” , Oxford : Clarendon Press, 1962

  • グライス, ポール『論理と会話』清塚邦彦訳、勁草書房、1998年

  • ハドルストン&プラム(Huddleston & Pullum)『「英文法大事典」シリーズ0 英文法と統語論の概観』本田・深谷・長野訳、開拓社、2017年

  • ライカン, W. G『言語哲学』荒磯・川口・鈴木・峯島訳、勁草書房、2005年

  • 小口裕史「「ムーアのパラドックス」と論理」『論理哲学研究』2001年第2号 ※WEB上のPDFで閲覧

  • 野矢茂樹『まったくゼロからの論理学』岩波書店、2020年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?