骨になる前に言っておく。

あの夏、私は長野にいた。

北海道で生まれ育ち、東京での仕事を経て長野に嫁ぎ、千葉に移住して暮らしていたが、長野にいる夫の祖父が亡くなったのだ。

長く介護生活が続いていた祖父とは何度か会って、少しだけ介護の真似事をした。
いつも何もわからない状態だと言うけれど、私たちが行った時はよく笑ってくれたし、目の光も良く、喜んでくれていたのはわかった。

そんな祖父の前で、夫の母と祖母はイライラ、チクチク。
しょうがない、40年ものの嫁姑の確執だ。
今更何をどう言っても変わらない。
ぶつかり合った矛先は、たまに祖父へと向かう。

「おじいさんの前でそんな‥」

祖父が傷つく言葉の時だけは遮っていたものの、もうおじいさんは何もわからないのよ!と言う。
日頃の介護の苦労もそう言わせているのだろう。

でも。
おじいさんはもう動かない喋ることの出来ない体の中にいる。
そこにいて、目の奥の光と電波というか気配のようなものでちゃんと意思を表している。

切ないなぁ。

私がご飯を食べさせるスプーンの運びに、
「早いっちゅうこと!」とちゃんと言葉で注意したおじいさん。
一緒に笑っちゃったけど。
そのあと介護の人が来たらもう目の光は鈍く、おじいさんは自分の奥の方に閉じこもってしまっていた。

そんな祖父が亡くなったと連絡が入り、私たち夫婦はバタバタと夜中に出発し、寝ないで長野に駆けつけた。
着いたのは朝。
7月の暑い朝だった。

ここから私は文化というものを知ることになる。
北海道が合理的というかドライ過ぎたのか。
香典も領収書出るくらいだからな。

私が家庭とか親戚とかあまり縁がなく育ったせいなのか。
長野の小さな谷文化は異国であった。


「おじいさん‥!」

棺桶に眠るその顔を見て、涙したのも一瞬。
挨拶もそこそこに、すぐに台所に呼ばれて仕事が始まる。
まずは線香をあげに来てくれる人をずっと接待する係。
誰かが来たら玄関へ走りみんなで膝をついて挨拶、その後座敷にお通ししたらお茶。
そしてそのお茶が減ったら全員のを常に継ぎ足して歩けと。

大きな急須に入った出がらしのぬるいお茶。

美味しいお茶を飲んでいただくのが目的ではない。
気遣っています、おもてなしていますというアピールのために足すお茶。

私はこの仕事が嫌いだった。

そしてテーブルの上には今食べるはずもないものをたくさん並べ、次々と来る誰かに曖昧な挨拶をして継ぎ足し、継ぎ足し、台所へ呼ばれては走り、また誰か知らない人に曖昧な挨拶をする。
これが長男の嫁の仕事らしい。

午前の部が少し落ち着くと昼。

身内の昼食作りだ。
いやいやみんなあるものを食べればと思うがそうはいかないらしい。
女衆と呼ばれる者たちは台所に集まり色々たくさん作る。
当然、料理のほか配膳や片付け洗い物もあり、それが終わる頃午後の接待やお通夜の準備やなんだかんだでバタバタしたまま、洗い物とお茶汲みを繰り返す。

夫はお坊さんをお寺に迎えに行き、着いたらまたみんなでバタバタ。
お坊さんは遺族代表の祖母と嫁である義母が接待するらしく、お菓子の位置やらどのお茶かとか、やっぱりこっちの器じゃないかとか、おしぼりは冷やしたかとか、1つのお盆に大わらわ。

やっと座ったのは正座でお経を聞く時だ。
と思ったら斉唱的なものもある。
おお、とことん休ませないシステム。
そうだ、これは休む時間じゃない、法要だ‥

そこから何をどうしたのか、とにかく来客が全員帰る頃にはクタクタ。
そこから夜ご飯を作るという。
なぜ‥

そして一連のバタバタを済ませたのは夜10時過ぎ。

明日の朝の来客までにはここをまた綺麗にしてセッティングしなくては。。

ここでやっとおじいさんの顔を見る。

朝一瞬見たきりで、ずっと知らない人接待して雑用してたものね。

「おじいさん横になれていいなぁ、ちょっと代わってよ。」

棺桶を覗き込んでそう言った叔父の冗談が妙に笑えて、みんな畳の上に倒れるように座った。
全員寝てないのだ。
義両親もその姉夫婦も、昨日の夜中からこの準備をしていたのだ。
いろんな手配もあるし、来る連絡への対応も大変だっただろう。

お通夜は全然偲べなかった。
ただミッションだった。
明日は火葬、そして葬式。
打ち合わせを聞く限りでは仕事量は減らない。
というかミッションがまた増える。

朝ごはんの準備片付け、来客接待、写真を持って火葬場に移動、会場に着いたら写真のセッティング、すぐ接待に回る、食事の席の接待、お酌、そこから葬儀場に移動したらいち早く入って受付業務、食事の席の接待、そして葬儀が終わったらバスより先に家に戻って食事の準備とみんなの出迎え、接待、夫は狭い道のバス誘導や車を出してあちこち送り迎え、バタバタバタバタ、バタバタバタバタ、、

気づいたらおじいさんは骨だった。


受付では義理と書かれた香典袋もあってびっくりしたけれど、これは故人の家族の義理で来ましたという風習らしい。
それに誰も知らない人が食事の席にもいたけど、これも来れなかった人の代わりに誰か代理を立てる風習らしい。
知らない同士でまた曖昧な挨拶をしてお酌をした。

やっと最後の食事の席、もう接待は放棄した嫁の私は冷えたビールを飲んでいる。

ちょっと苦めの麒麟のラガー。
私は淡麗が好きなのよ。


絶対余る量の料理には饅頭の天ぷらが。

そうか。
この完成された饅頭さえまた手間をかけて天ぷらにするこの文化。
合理的なことを言えば一斉に批判の目で見られるこの文化。
文化とはなんと面倒で、なんと面白いものか。

古来から小さな谷文化で生きて行くためには、隣同士や親戚を大切にして、おかげさまでと言い合って来たのだろう。
そして未だにゴミ出しも見張り当番のある相互監視。
そこでうまくやって行くにはおかげさまでと言い合うのだ。
大切な人が死んでも。
おかげさまで生前はお世話になりましたと。
遺族は悲しむ暇もなく接待に徹するわけだ。

なるほどねぇ。
土地に歴史あり、人に歴史ありと、妙に納得した。


どんな生き物もいずれ死ぬ。

順番なんてわからない、私が早く亡くなればこの土地で葬儀になるのだろう。
だから、これだけはと夫に伝えた。

私が先に死んだらさ。
来客なんかどうでもいいから、せめてこの体が消えるときまでは私の側にいてよ。


#あの夏に乾杯 #エッセイ

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