悲観的なケバブ屋

水曜日の仕事がおわった。
今日は、ハウスメイトのイギリス人とlanguage exchangeのイベントへ!
同じ系列のシェアハウスに住んでいる人々が対象で、日本語を話したい外国人と、英語を話したい日本人が集い交流するイベントだ。

ペルーやスイスなど英語を第二言語としながら、日本語を学びにきている人々、彼らの英語の間違いなど気にせず、ジョークを交えながらみんなを楽しませようとして話す姿勢はすてきだ!私もはやくそっち側の人間になりたいな、そのために英会話のリスニング力を高めたいなぁとモチベーションをもらう。

イベント後、どうせみんな各々のシェアハウスに帰って晩ご飯を食べるのなら同じことだろうと思い、ご飯でもいく?とみんなを誘った。
ぶらぶらと駅前を歩き、6名が入れそうなケバブやさんに入った。

ところが、そこから一緒に行ったイギリス人は、食べ物も飲み物も何も注文せず、ただつまらなそうにスマホを見始めた。
ケバブやなのに、なぜか突然ダンスショーがはじまり、最後は客も巻き込まれて一緒にダンスがはじまるというアクシデント?があったのだけれど、その時ですら彼だけ楽しくなさそうな雰囲気だった‥

2人で家までかえる帰り道、私は「どうしたの、何がそんなに嫌だったの?」ときいてみた。
どうやら彼は日本語を話したかったのに、ケバブやさんではみんな英語で話していたことや、一緒にいった人々があまり好きではなかったらしい。
うーん、気持ちはわかる。でも正直私もケバブやさんでのみんなの英語のスピードに時々ついていけていなかったし、たしかに少し自己中心的だなと思う人もいたけれど、総じて今日は楽しかったなと思っている。それは自分で自分をハッピーにさせようと努力してるからだと思う。だからあなたもハッピーになりたいなら、まずは自分で自分を楽しくさせようとしなくちゃダメだよ、みたいなことを私の拙い英語で、一生懸命に伝えてみた。
しかしそれに対して彼は、言ってることはわかるけど同意はできない。あなたは楽観的で、僕は悲観的。変わるのは難しい。でもIf you are happy, I'm happy.と言った。
だから私は、but if you're not happy, I'm not happy. That's why I'm trying for you now.
と返した。
終わりの見えない平行線の議論。後味悪く同じ家に帰りたくなかったので、we didn't fight?私たち喧嘩してないよね?ときいて、もちろん!と返事をもらい、各々の部屋にもどった。

でも相手とのコミュニケーションが失敗におわったことは、とにかく私を悲観的にさせた。
部屋に帰ってルームメイトに事の顛末を話した。「私は彼にハッピーになってほしくて頑張ったのに、彼を納得させられなかった」と。そして話し終えて、「あー邪気払ってくるね」と言ってシャワーを浴びることにした。
リビングへ行くと、彼もみんなに今日いかに楽しくなかったかを話しているようだった(全然聞き取れなかったけど、雰囲気的にそうだったと勝手に思っている)。
それがさらにストレスとなり、言葉にならない気持ちが三滴の涙になって私の頬を伝った。

シャワーを浴びながらふりかえってみる。
すると私の会話や話し方って、なんてselfish自己中心的だったのだろうかと気づく。
楽観的な人の方がマジョリティで、その方が何かとうまく生きやすい社会。でも世の中には私の簡単な発想では理解できないほどの悲観的な人だっているし、その人にはその人なりの考えがある。
見方を変えれば、楽観的な私が、悲観的なことを悪と捉えて、一方的に彼に自論を押し付けた、そういう見方もできるだろう。それはルームメイトに仕切りに「彼を納得させられなかった」という言葉を使ったことにもあらわれているとおもう。
もし私が本当に彼を納得させたいとしたら、それは自論を展開するのではなく、
彼に質問し、それを受け止め、そしてまた質問を重ね、コミュニケーションを深めていく中で、彼自身が気づき納得する応えをみつける手助けとして、私が存在すべきだったのだと思う。

そんなことを考えながら、シャワーをでた。
まだモヤモヤしている。
そして朝起きてもやはりまだモヤモヤしている。
リビングへいく。運悪く、彼も朝ごはんの時間。

言葉では「おはよう!」と言う。でも身体からは負のエネルギーや嫌悪感を出していたのだろう。
彼はそれを察知してか、「昨日はごめんね」と言った。私は予期していなかったその言葉に思わず「なんで?」と聞き返すと、「あなたを不快に悲観的にさせてしまったから」と応えた。全くその通りだ、と思いながらら、「私もごめんね、私の意見を押し付けて」と伝えた。すると彼は「but we didn't fight?」と昨晩の私の真似をして、私を笑わせてくれた。
仲直りのハグでもすればよかった、と後から思ったけど、さすがに純ジャパの私にはすぐそれが思いつかなかったな。笑

言葉にしなくても、人と人が対面するとき、何かしらエネルギーを発しあって感じ取り合う。

日本語は暗示的コミュニケーションの文化だから、言わなくても日本人同士なら空気を読みあってわかることの方が多いと解釈していた。
しかし実は「日本人」という人種の垣根をこえた「人間」というレベル感で、私たちはお互い何か"気"のようなものを発して生きていて、それを元に言葉無しでも、今は良いタイミングなのだ、今はそうではないのだ、と感じ取り合うことはできるみたいだ。

もちろん、言葉にしなくてはわからない時だってたくさんある。
自分の気持ちを正確に話すために、周りを楽しませるためにも、これからも言語は学ぶ必要がある。

しかし私たちは同じ人間である限り、誰しも等しく"気"というものを持ち合わせているのだ!と
私はケバブ屋の一幕からひそかに再認識した。


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