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3. ジョスさんの話

 さて、それでFCとは何なのか……を説明する前に、また別の話をさせてください。それは私がこの映画の中で「好きだった部分」です。

 そうです。一本の長い作品なのですから、良いところだってたくさんあります。ただ否定だけをしたいわけではないのです。

 『僕が跳びはねる理由』はオムニバス形式を取った映画です。東田直樹さんの著書からの引用をナレーションとして挟みながら、世界の5人の青少年の日常を映していきます。5人はいずれも「ノンバーバル」と言われるような、あまり会話のできない*自閉症者です。(*どう書くのが学術的に正解なのかよく分からないのですが、とりあえずこう表現させていただきます)

 ジョスさんはその中の一人。イギリス編に出てくる青年です。NHKのドキュメンタリーにも出ていたので、そちらで見知っている方もいらっしゃるかもしれません。トランポリンで跳ねるのが心地いいらしく、映画の中でもその場面がたくさん映されていました。

 さて、私がジョスさんのパートが好きな理由は何か。それは「赤裸々さ」です。実は、ジョスさんのご両親はこの映画のプロデューサーでもあります。だからか分かりませんが、彼のパートはただ綺麗なだけでなく、「良い」面も、「悪い」面も正直に映し出されるのです。

 例えば車の中でお父さんがピザを買ってくるのを待っている場面。この日に限ってお父さんはピザ屋に待たされ、なかなか車に戻ってこられません。やがてジョスさんはパニックを起こします。「ノー・ピッツァ!」と叫んで車の中で暴れます。お母さんは痛いよと言いながら、ジョスさんを落ち着かせようとします。

 もしかしたらジョスさんは、ピザがいつも通りの時間で来ないことに混乱したのかもしれない、と私は思いました。予定していた物や人がなかなか来ないと、焦ったり心配したりするのは誰しも同じです。もしかしたら「今日はお店が混んでるからあと~~分くらいかかりそうだよ」といったことを教えてもらえたら、パニックも和らぐのかもしれません。もちろん、そんな簡単なことではないのかもしれませんが……。

 ……ここで、映画のパンフレットから一部を引用させてください。上に挙げたピザの場面について、インタビュアーから聞かれた東田直樹さんの言葉です。

人が困っているように思われる場面を映像にするのは悲観に繋がってしまう危険もあります。が、あえてこの場面を使ったのには訳があったと思います。出来ないことにカメラを向けることで、僕たちの生きづらさを伝えたかったのでしょう。(後略)

 後段については分かります。ドキュメンタリーなのですから、監督はジョスさんのいろいろな姿を撮りたかったでしょう。また、上に書いたようにジョスさんのご両親の意向もあり、「自閉症は綺麗事だけじゃないよ」「同じように困っている人たち、それは私たちも一緒だよ」といったメッセージになっているのかもしれないと私は受け取りました。

 それをなぜ、東田さんが「悲観につながる」とマイナスのことのように言ったのか私は分かりませんでした。

 私はパニックを起こすジョスさんを見て、嫌な気持ちはしませんでした。だって理由があってパニックになっているのでしょうから、それは仕方のないことです。もしパニックにならなくて済む方法があれば、ジョスさんにもご両親にも良いことじゃないかなぁ、と考えるだけです。

 「悲観につながる」内容を、東田さんはなるべく隠してほしいのでしょうか。ご自分のように、講演やインタビューを受けて、完璧にこなしている姿だけを見てほしいのでしょうか。

 確かに、そうすれば世間の「自閉症」のイメージは良くなるかもしれません。でも、イメージが現実と違ったら意味がありません。現実を綺麗に覆い隠すことが、自閉症への理解や思いやりにつながるとは、私にはどうも思えないのです。

 続きはまた……。