クソみたいな人間といたくないから、金持ち目指すはアリですか?

怒りを抱いた時、人はさまざまな方向にアクションを起こす。
居酒屋に同僚と連れ立って一杯ひっかける輩、カラオケに一人で行って熱唱かます輩。(昔の自分)
まあ色々いるわけだが、怒りの力を何に変えるかって話をしたい。

僕はクソみたいな出来事を前にすると、専ら金持ちになりたいと念じてしまう。
これは気性みたいなもので、脊柱反射のごとく抗うことなき反応なのだと自認している。

もちろん金持ちになるための努力はしなくてはならないが、そんな金持ちトークを繰り広げると、ネガティブ要素からの金持ち志望を浅はかだと嘲笑するやつがいたりする。

お前は甘ったれだ。
社会人なら我慢して当然だ。
うまくやるのが大人だ。

ああ、反吐がでる。。
これらのことを何度言われか分からない。
特に、会社生活にどっぷり浸かった人は何の疑いもなくこれらの言葉を使いがちだ。
疑問や不満を感じない、いや諦めてしまったロボトミー達の圧力に、僕は表面的には屈しながらも、心の中では中指を立て続けているわけだ。

よく金を愛などという姿かたちのないものと等価交換できるか否かで議論をする者がいる。
お金で買えないものがこの世界に一定数存在することは認めるが、社会生活における不満はお金が解決してくれると信じている。
僕はお金に取り憑かれた憐れな亡者だろうか?
いや、そんなことないはずだ。
みんな心のどこかで思っている。

もう少しお金があれば働かず好きな時間に寝て起きる生活ができるのに。とか。

もう少しお金があれば高額な医療費のかかる先進治療を受けられるのに。とか。

少なからず絶対にあるはずだ。
その願望を公言することを下品だというなら好きなだけ言えばいい。
ただ、口に出したもの、思いをはっきり持つものにしか機運は訪れないと信じている。

余談だが、信じている、だと思う、そういった言葉を使うのがいい加減イヤになってきた。
言い切るという経験者にしか使えない文法を使用したいものである。

まとめに入ろう。
僕が今なぜこのnoteを書いているか。
それは怒りのエネルギーを転用する練習をしているからだ。
つまるところ何かを成し遂げたりだとか、創作などもそうだと思うが、エネルギーのないものには魂は宿らないし、"本物"を作り出せないという至極当たり前の結論に行き着いたのである。

僕の場合はそれが怒りだ。
怒りは意外に柔なものだ。
少し和解できれば、ちょっと納得してしまえば、ギャンブル風俗酒のような現実逃避に没頭すれば、簡単に鞘に収まってしまう刀だ。
でもそれではいけないのだ。
鞘に収めず刀を握る力や集中、気合、明鏡止水の境地をもって物事に取り組まなければならない。
修羅道を歩むものにしか、その先の極楽は辿り着けないと考えている。

ビジネスにおいて今まで日の目を見ずに日陰の中で芽を出せなかった者は、その鬱憤をエネルギーに変えて地中深くを目指す。
根は次第に大きくなり上へと伸びてゆく。
いずれ日陰を作り出していた山や森を突き抜け、燦々と輝く太陽を見てその生まれて初めて見る輝きに一筋の涙を流すのだ。
僕はそんな人生を歩みたい。

おわり

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