クヌーセン気体に見られる自発的なエントロピー減少【論文紹介】#10

先週紹介したこととは矛盾するようだが、クヌーセン(Knudsen)気体というちょっと特殊な状況で熱力学第2法則を破るように見える事例の紹介。なんだそれ、そんなのありかよと思われるかもしれないが、矛盾するようなことがどちらも理論的にしっかりと立脚している、これもまた理論物理の面白いところではないかと思う。(”理論的にありうる”ことのうち”物理的にありうる”ことがどれほどあるかは、理論物理をやってみるとほとんどわからないものではないかと感じる)

今週紹介する論文はこちら
Spontaneous cold-to-hot heat transfer in Knudsen gas
クヌーセン気体における低温側から高温側への自発的な熱移動
2312.09161.pdf (arxiv.org)

気体分子が分子同士で衝突をする間の平均自由行程 λ が、容器の幅 D に対して十分に大きい、つまりクヌーセン数 K=λ/D が1より十分に大きいとき、その気体はクヌーセン気体と呼ばれ、壁面との熱のやり取りに関して、普通の気体とは違った振る舞いを示すことが知られている。
速い気体分子は容器壁と頻繁に衝突して熱を放出し、遅い気体分子は内部に長く留まる傾向がある。そのため、容器内の比較的高温の分子が壁面と同じ温度になるので、気体全体の温度は壁面より低い温度で平衡状態になる。この性質を利用して、エントロピーが減少するように見える状況をセッティングする。

本論文ではまず、次のような状況をシミュレーションする。
2次元空間で、一辺の長さL=200 Å、粒子数N=500、粒子径d=2 Å、衝突は完全弾性衝突で、長距離相互作用はないものとする。(図1(a))
クヌーセン数は、$${K=\frac{(L-d)^2}{\sqrt{8}Nd}≒13.86}$$
粒子の速度分布p(v)は2次元のマクスウェル・ボルツマン分布
$${p(v)=β_0mv・e^{-β_0mv^2/2}}$$に従うとする。
2×10^4 fsのシミュレーションを行い(1フェムト秒は分子がおよそ1 Å動く時間)、全粒子の運動エネルギーの総和として内部エネルギーを計算する。
定常状態において、400(=20×20)のセルに分割する隔壁を挿入する。挿入する隔壁の温度は外側の壁と同じ。(図1(b))
それで定常状態になったらまた隔壁を取り除く。これを2周繰り返した。

図1 (a)2次元気体モデル (b)隔壁を挿入 (c)初期状態からの内部エネルギーの時間変化 (d)熱の放出量 (e)壁面に当たった粒子の運動エネルギー

図1(c)は気体の内部エネルギーの時間変化であるが、隔壁を挿入すると約2割エネルギーが減り、隔壁を取り除くと元の定常状態のエネルギーに戻る。
図1(d)は気体から壁に移ったエネルギーの量で、(c)で失われた分がほぼちょうど壁に移っていることがわかる。
エネルギーを見ると、より温度の低い気体側から、より温度の高い挿入された壁面へとエネルギーが移動している。
隔壁が挿入されると、分子が壁に衝突する頻度は上がって熱がより多く壁に移るようになる。最初の定常状態は、壁より気体の温度のほうが低いので、隔壁が挿入された状態は、より温度の高い壁へとエネルギー(熱)が移っているのである。
この隔壁はマクスウェルの悪魔とは違い、粒子の位置や速度の情報とは関係ない。(マクスウェルの悪魔は粒子の位置や速度の情報エントロピーが気体から悪魔に移って、トータルで考えるとエントロピーは減ってない。)
また、ゆらぎのごく一部のエントロピーがちょっと減る部分でもなく、低温の気体から高温の壁へと明らかな熱の流れがある。
論文には、「熱力学第二法則を破って他の効果なしに環境から熱を吸収して、熱電素子を駆動して有用な仕事を生み出すことができる」と書いてあるが、さすがにここまで大きな熱の流れは生み出せない、あっても使えないくらい微々たるものではないかと思われるが。


もう一つ興味深い事例として、隔壁なしでも、一様重力下で同様な高温側への熱移動が見られる次のようなシミュレーションを行う。
上部は温度$${T_t}$$下部は温度$${T_b}$$で一定温度の壁、横はつながっている周期境界条件とする。他は図1と同じ条件とする。
平均自由行程は$${λ = \frac{A}{\sqrt{8}Nd} ≒ 27.77}$$ (Aは面積)
重力加速度gは、計算しやすいようにボルツマン因子が次のように一定になるようにした。
$${δ_0 = e^{-βmgz} = 0.607}$$ (zは高さ)
気体は底面と熱平衡になった状態からシミュレーションする。
高さ z は、平均自由行程 λ に対してz/λ=0.05のときと5のときの2パターンで行った。

図2 (a)一様重力下の2次元気体モデル 上下に壁はあるが横(AとB、A´とB´)はつながって円筒状になっている周期境界条件 (b)高度(横軸)ごとの上昇する粒子のみでの温度(縦軸) (c)高度ごとの全粒子での温度 (d)壁から気体への熱流量 青は下面から、赤は上面から

図2(b)は上昇する粒子のみをピックアップし、高さを10分割して各高度の温度を計算したもの。(c)は全粒子での各高度の温度。
注目すべきは、z/λ=5のときは、温度は高度によらずほぼ一定(これは普通の気体の理論通り)だが、z/λ=0.05のとき(天井が低いとき)は上層に行くほど高温になっている。これは、クヌーセン気体の場合は、速度の速い分子は上面にもよく当たるが、速度の遅い分子は上面にはあまり当たらないことに起因する。(b)のグラフの点線は、ボルツマン因子に重力の位置エネルギーを考慮した理論値であり(式(2))、よく一致している。
図2(d)はz/λ=0.05のときの上面と下面から気体への熱移動量で、下面の温度と上面の温度の比$${\frac{T_b}{T_t}}$$を1から0.6まで変えてシミュレーションした。
ここで注目すべきは、$${\frac{T_b}{T_t}=0.9, 0.95}$$のとき、温度勾配に高さをかけた値が上下の温度差を超えるので、下面と平衡になってもその気体は上面に着くところでは上面よりも温度が高いので上面にエネルギー(熱)を渡す、つまり、低温の下面から高温の上面へ自発的なエネルギー(熱)の流れができることになる。
下面のエネルギー放出と上面のエネルギー吸収は釣り合っているので、熱力学第1法則(総エネルギーの保存)は守られている。
また、このエネルギーの流れは定常的に起こるものであり、重力による位置エネルギーを消費しながらのものではない。
もう一つ注意として、地球の大気圏はこのシミュレーションとは比較にならないほど濃い(クヌーセン気体とは程遠い)ので、このような熱の流れはない。

どちらの場合も、「エネルギー消費なしに、熱は冷たい側から熱い側へ自然に移動することができる」と論文には書いてあり、あたかも夢のエネルギーを示唆するようにも思われるが注意が必要である。クヌーセン気体とは、定義からもわかる通り、非常に希薄か非常に小さい容器でしか見られないもの。隔壁を入れる例は、おそらく現実には全く役に立たないレベルの微々たるものだろうし、一様重力下の例は地球大気とは程遠く、到底実用されるとは思えない。
ただ、理論物理の対象としては面白いと思う。体の重心はバーを越えないのに全身がバーを越えられる背面飛びのような、技巧を凝らしてうまく熱力学第2法則の壁を越えている感じで。

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