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純度100%の女の子

わたしは純度100%の女の子ではない、と思うようになったのはいつの頃だったか。
同世代の子たちがジャニーズやサッカー選手などにハマっている間、わたしはそういうものに目もくれず、ファッション雑誌を眺めては「可愛い服が着られる”女の子”になりたい」と思い続けていた。お針子になりたいくらい裁縫が好きだったし、舞台衣装を作っている時間が何より楽しかった。



わたしの趣味は、わたしの好きな人の好きなものからできている。
17歳くらいの時、何を見ても何を読んでも「どういう感想を持ったらいいのかわからない」という状態に陥っていた。
それは中高と、いじめられないか・嫌われないかばかり心配してビクビクしながら学校に通って、「自分の持つ感想に自信がない」「こんな風に思っているのか、と思われるのが怖い」「どういう風に感じれば良いのかわからない(他人がそれに対してどう考えるのかばかり気になる)」というのが主な原因だった。


「感受性が死んでいるな」と思ってはいたのだけれど、どうすれば良いのかわからなかったわたしは、とりあえず好きなモデルの好きな本・映画・音楽、親しい友人の勧める本などを片っ端から取り入れることにした。
「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」(茨木のり子)という詩に出会うのはその翌年のことで、早くに気づけて良かったなと思った部分でもあった。

その習慣は今でも続いていて、人から勧められるものは時間の許す限り取り入れるようにしている。友人や憧れの人の好きなものを知りたい気持ちも、もちろんある。
最近、人から勧められた本を読んでいるうちに、一冊の本のことを思い出し、本棚から取り出した。

それは、『スヌスムムリクの恋人』という野島伸司さんの書いた小説だった。
17歳の頃、初めて読んで衝撃を受けた、だいすきな本である。

作者の野島伸司さんといえば、90年代のトレンディドラマの脚本家として時代を席捲した人で、『101回目のプロポーズ』『人間失格〜たとえば僕が死んだら〜』『高校教師』『薔薇のない花屋』など数々のヒット作を生み出している。
わたしの家では、TVは教育的に悪とされていたので一つも見たことはないのだけれど、それでも凄まじい人気だったことは後々色んなものを調べて知った。


▼『スヌスムムリクの恋人』あらすじ
清人、哲也、直紀こと僕、そしてノノ(望)は計画された同級生。同じ大学のラグビー部出身の父親たちはほぼ同時期に結婚、そして同時期に子どもを作り、思惑通りに四人の男の子tが生まれた。けれど、最後に生まれたノノだけは、三人とは少し違っていた。女の子のような外見をしたノノは、心も女の子だった。ノノを含む四人の幼馴染が繰り広げる、誰かを幸せにしたい人に贈る友情&ラブストーリー。


幼馴染の三人が三銃士のようにノノを守ろうとしたり、友情を深めたり、バカやったり、結託して大人を説得したりする部分ももちろん見どころなのだけれど、初読当時一番影響を受けたのは、主人公の直紀が中学生の頃に出逢う、ナナコというバイセクシャルの人のセリフだった。

「要はパーセンテージの問題じゃない?
体と反比例してる異性の部分が多いか少ないか。普通はキュウイチ(9:1)かハチニー(8:2)で合ってるけど、逆の場合もある。
わたしは、そうね、ロクヨン(6:4)で心は男かな。だからまぁどっちでも平気っちゃ平気って事」


このセリフを読んだ時、色んなものがすっと腹落ちして、救われた気分になった。
“純度100%の女の子になりたい”という願望は正しいでも間違っているでもなくて、適合の問題だから別に悩む必要のないことなんだな、と気づいた。
深く悩んだことがあるわけではないのだけれど、わたしは多分ナナコのいうハチニー(8:2)ぐらいで女。だから、いつでも必死で可愛いを追いかけるし、"ロングじゃなきゃ女の子じゃない"ぐらいの気持ちで髪の毛だって切れない。身の回りをピンクで固めて、どうにか女の子であろうとする。純度100%の女の子はいつだって羨ましい。未完成だと、不完全だと思うから、追いかける。


次第に、男だから〜女だから〜と言われがちな世の中の風潮に対して、適合のパーセンテージの問題なのだから「性差より個体差でしょ」と思うようになった。
確かに身体的特徴や行動の傾向などは一定の傾向が見られるのかもしれないけれど、一人ひとり適合の具合もきっと違うのだろうから、ちゃんと相手のことを知りたい。
性別で切り分けるのではなくて、その人自身の個体としての特徴を知りたいと思う。



良い本、良い文章というのは、自分の人生の見方を少し変えてくれるものなのかもしれないな。
『スヌスムムリクの恋人』の本筋の話は、またどこかで。


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