雑記2023/9/26 「パーフェクトブルー」

・パーフェクトブルーのリバイバル上映を前情報なしに見てきた。
・一回しか見てないし今敏も平沢進も詳しくないので、部分的で外在的な話に偏るんだけど感想を残しておく。25年も語られてきた映画かと思うと、偏った感想書きたくなるよね。


・今年の夏に岩波文庫で復刊した、ベイトソンの『精神の生態学へ(中)』。これを読んでいたから、劇中劇のタイトル『ダブルバインド』が光って見えていた。ダブルバインドは、知の巨人ベイトソンが提案した概念。受け取るメッセージ自体とメタメッセージの間に矛盾がある時、退路を失った人は統合失調症的な対応をするほかなくなるみたいなことである。

・これがあったので、ドラマのタイトルが『ダブルバインド』なのに解離性同一性障害なの?と疑いながら見ていた。実際、現実の真相では未麻に交代人格など無いというオチだった。
・つまり未麻が発展させた病理は、人格や記憶の一貫性が失われる解離性同一性障害というよりむしろ本性は統合失調症的な妄想であった、という展開なのだろう。その読み筋で味わい深かった構造を以下に2つ記しておく。


・まず、アイドルでも女優でも芸能の仕事は、妄想を濃縮する環境として整っているということ。

・精神科医の春日武彦は、病的妄想の患者間での共通性に注目し、妄想の発展を「物語の胚珠」の発芽として捉える。
・人々は誰しも「物語の胚珠」を持っている。これは、小説や映画、都市伝説で共有されるサスペンスやホラーの”お決まりの流れ”にまつわる知識だ。そして、人の少しの錯覚や思い違いがその胚珠を活性化し、不安感と想像力は養分を与え、胚珠は発芽する。気づいたら狂気めいた妄想が実を結んでいるわけだ。
・それゆえに病的妄想は引用元を共有し、野暮ったく陳腐なものになるということだ。
(春日武彦が言ってるのはちょっと違かったかもしれないと書きながら思っている。気になるなら『屋根裏に誰かいるんですよ。』を。)

・その意味で、芸能人に植えられている「物語の胚珠」は豊かで根深い。盗聴・盗撮のリアリティであったり、フィクションとの距離感が異なるからだ。

・2700の八十島には、統合失調症的な症状の療養で休業していた時期がある。身の回りの小さな変化が全て番組のドッキリなんじゃないかと思い込んでしまい……という流れが語られている。この動画は相当面白い。


・もう一つ、レ被害の演技をさせられる場面。こういう仕事によって、未麻にはコンテキスト理解の崩壊が迫っていたのではないかと考える。
・ダブルバインドの話をできるだけ原義に近いところで適用するなら、「これは演技(play)ですよ」というメタメッセージ、つまりコンテキストの理解にまつわる部分であろう。

・未麻は撮影が決まった場面で強がるように「本当にレされるわけじゃないんだから」と伏線を張っていた。実際の撮影で相手の俳優は「ごめんね……」みたいなことを言っていたと思うが、薄気味悪い視線、猥雑な所作からは率直なシグナルが伝わってくる。
・これを演技だと思わなければいけない一方で、非言語的なシグナルはこれが本気だと伝えてくる。

・ここで、『ダブルバインド』の役への過剰な自己投影そして幻覚は、このダブルバインドからの自己防衛の結果だったと考えるのはどうだろう。
・非言語的な材料からメタメッセージを理解しようとすること、それ自体に懲罰が与えられた状況において、未麻はコンテキストの理解を徐々に阻害される。レの演技にまつわる話だけでなく、周りの大人の建前や自分の本音についても類似の構造があるだろう。
・これは演技で、こっちはプライベートでというような区切りが徐々に弱っていったのは、置かれた状況を考えずにそのまま受け入れるという、ベイトソンのいう破瓜型に近い適応が起こったのではないか?そうして未麻はあの役に吸い込まれかけていたのかもしれない。


・これが一つの読み筋に過ぎないのはもちろんだ。未麻には普通に交代人格があって、変わったピザ屋さん辺りの殺人は犯していたとしても多分矛盾しなそうだし。私には真相を言い当てられない。というより言い当てることを手放させられている。
・現実、演技、妄想がシームレスに転換する演出はそれらの区分を解体するためのものである。コンテキストの階層に分化させようとする努力はさらなる悪寒と謎を導くばかりだ。
・未麻とは違いこの危機から脱出可能であるのが我々にとっての幸いである。2度は見たくない傑作だった。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?