小説「霊の正体」(前編)

 私の知る数少ない経験から判断すると、霊と遭遇するときには霊の正体とも遭遇する気がする。というよりむしろ霊の正体が強烈な印象をあたえる。これが霊なんだこれが霊なんだという驚きがサイレンのように鳴り響いて、自分がおかしくなりそうなほどにテンションになっている。ぎゃくに、こうした突拍子のないテンションをともなわない霊体験を私は信じない。その眼でみると、世の中にはまことしやかな嘘がおおいと思う。

 という文章が私の眼前にとつじょ出現した。日付は2021年の8月14日のこと。このとき私はアカウントが乗っ取られたのだと確信した。これがnoteの自分のアカウントの「下書き」にある文章だったからだ。このアカウントも引っ越すのかと心で絶叫した。私は某まとめで無報酬ながらコツコツと教育系の文章を書いてきていた。そして、そのサービスが閉鎖するさい記事を全て引っ越した。そもそも私は転勤族の家の子どもで、現実の引っ越しの大変さは身に染みてよくわかっている。そして、100近くあるデータのプラットフォームの引っ越しというというものが同じくらいからだにくるものだということを実感したのだった。正直サービスが継続している最中にアカウントを引っ越すなどごめん被りたかった。

 そんな気持ちがあったからだろう。私はこの文章を自分が書いて忘れてしまっている可能性を検討しはじめた。じつはnoteには「小説」と冠した短い文章をいくつか載せている。私は無意識のうちに創作メモを書きつづったのではないか、と考えてみたのだ。私はどちらかといえば科学的な人間であり霊現象は信じていない一方で、子どもの頃からオカルト話はひとしなみに好きだった。だから、オカルトをネタに書いた走り書きをすっかり忘れてしまったのだと。でもどだい無理な考えだった。そもそもそんな覚えは自分にないし、noteの下書きの記事はそれが置かれたリストの位置から判断して新しいものだ。昨日今日の記憶喪失はさすがにない。ただ、気になるのは文字づかいが自分と近いという点だけだった。

 私はその下書きの画像をスクショし、文章をコピー&ペーストしてファイルに保存した。運営に乗っ取りを訴えるための証拠になるかもしれないと感じたからだった。下書きは放置してそのままにしておいた。これも証拠にするためにそうしようと決めた。ただ実際のところ、運営に報告する気はすっかり失せてしまっていた。自分のアカウントで勝手に記事が公開されていたらあわてるが、ただ下書きが増えただけで実害は現時点で皆無なのだ。こんなことを訴えてもまともに相手されるかという疑念さえ感じる。そんなことを考えて、どこかいじけた気分でアカウントを閉じようとしたとき、私は他の可能性を思いついた。これは匿名の第三者によるアカウントの乗っ取りではなく、私の家族がやったのではないのか?

「なんか息が荒くなってるけど大丈夫?」シズエは心配そうな表情で言う。先ほどまでダイニングテーブルでノートパソコンに向かっていた彼女は仕事をすませて顔をこちらに向いていた。シズエは私の反応をずっとみていたのではないか? シズエが私のスマホを勝手に使っていたずら書きをしたのではないか? それともパスワードをそこから盗んで操作したのか? そうしておまえが小さな秘密をnoteに持っていることはお見通しだと嘲笑しているのでないか? 言葉にすればそんな感じのフアンとフンガイが私の体を貫いた。自分でもここまでいきり立っていることが不思議だった。「なんでもない、ノドの調子が悪いから飲みものをとるよ」といって、私はそそくさとキッチンの冷蔵庫へととりあえずの避難をした。

 飲みものを用意するあいだ私はシズエのことを見てはいけない。いくらなんでもそんなヤツはあやしすぎるだろう。「大丈夫?」って言われて「何でもない」って答えてちらちら相手をうかがうなんて真似はできない。たとえば冷蔵庫のことを考えて気をそらそう。白い大きな冷蔵庫。冷凍庫が4種類あって私は使いこなせていないが製氷のスピードはすごいと思った。私ではとても買い換えられない冷蔵庫をシズエは最近買った。このキッチンにある冷蔵庫も、すぐ後ろにある食洗器も、有名なブランドのキングサイズのベッドもシズエがだいたい一括払いで購入している。私の収入ではとてもむずかしいことをシズエはいとも簡単に繰り返している。このマンションの名義だって彼女のものだった。

 いいだろう。私はグラスに炭酸水をいきおいよく注ぎながら考えた。いかにも私はひもみたいな存在だ。しかも二枚目でもなく、ひもらしき技術をろくすっぽ持たないたよりないひもだ。こんな私はいつシズエから切られてもおかしくない。すくなくとも私はそんな風に感じる。社会のなかでたよりない立場であるばかりか、家庭でもそうなのである。つまり、こんな風に、ひそかに境遇をひがんでいる私は、シズエにひそかな悪意をむけられる日がいつか訪れることを想像しないではいられない。シズエ犯人説はこの私のねじ曲がった心理の虚構かもしれない。「飲みものいる?」私はシズエに声をかけた。いいわいらない、と背中で返事してくる。私は自虐の心をふりはらって明るいダイニングにもどることにした。

 椅子に座るとはす向かいのシズエに今日起きたことを話したくなった。実はnoteにアカウントをもっていて、なんだか不思議なことが起きたんだ。実際にそう切り出そうとした。ほとんどそうしようとして、私はべつの大切なことに気づく。あの記事だけは読まれたらまずいじゃないか。あの記事をシズエが読んだらいっしゅんで軽蔑されるかもしれない。というかあんなことを知られたらいやだ。私は恥のため酔ってもいないのに顔がほてるのを感じる。いま消そう。公開した記事も消せるはずだ。私はそれとなく、というよりそれとない感じをよそおってnoteにログインする。なにくわぬ様子で自分の記事一覧をひらこうとして思わず声をあげそうになった。そこにまた自分の知らない記事が増えていた。

 霊との遭遇が、というよりも霊の正体との遭遇が問いつめることは、私自身も霊であるという事実なのだ。それは比喩ではない。すでに体をもたない。私が立っているのは自分の足でではない。足が着地しないこの世界はぐらぐらと揺れている。いや、単に私をとりまいているだけの暗かったり明るかったりするこの場所がすでに霊界である。霊界にいて、私いがいの幽霊がすぐ近くにいることを次々と思い出していくことに夢中になるのだ。

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