見出し画像

《大学入学共通テスト倫理》のためのアンリ・ベルクソン

大学入学共通テストの倫理科目のために哲学者などを一人ずつ簡単にまとめています。アンリ・ベルクソン(1859~1941)。キーワード:「純粋持続」「生の躍動(エラン・ヴィタール)」「愛の躍動」「開かれた魂」「開いた社会」「ホモ・ファーベル」主著『物質と記憶』『創造的進化』『道徳と宗教の二源泉』

これがベルクソン

画像1

ノーベル文学賞を受賞しているフランスの哲学者です。ところで、ベルクソンは日本で「ベルグソン」と表記されてきましたが、現在では「ベルクソン」が一般的な表記だそうです。

📝早速ベルクソンの「純粋持続」論の射程を覗いていきましょう!

まったく純粋な内的持続とは、われわれの自我が現在の状態と以前の状態とを区別しないで、あるがままに生きているときに、われわれの意識の諸状態がとる形式である。(略)ある旋律を奏でるさまざまな楽音を思い出すときのように、いわば一つに溶けあったものとして、過去の諸状態を現在の状態に有機的に統合するだけでよい。(『新訳ベルクソン全集1意識に与えられているものについて試論』(アンリ・ベルクソン著、竹内信夫訳、白水社)p98から引用)

これがベルクソンの「純粋持続」その1。意識の深層で諸物と融合しながら流れているダイナミックな有機的な流れを提唱して彼はこう名づけています。あたかも楽曲の一節の中に「一曲の全て」が反映するように「純粋持続」の流れは過去を含み、同時に未来に向かう充実があると語られています!

📝ベルクソンの語るこの「純粋持続」は破格です!

その意識のなかではすべてが相互に均衡しており、相補的であり、中和している。まさに、その物質世界の総体が、われわれの知覚の分割不可能な一体性を提供しているのである。(『新訳ベルクソン全集2物質と記憶 身体と精神の関係についての試論』(アンリ・ベルクソン著、竹内信夫訳、白水社)p297から引用)

これがベルクソンの「純粋持続」その2。それは過去と未来の意識を含むだけでなく、「物質世界の総体」を再構成していると主張しています。物質の側にイメージを置き、人間の「記憶」と「想起」がそれらをひとつに凝縮しようとするプロセスを営むという考察によって彼はそう主張しました。

📝精神と物質についてベルクソンの認識はこうです!

精神と物質とが合流する地点に身を置き、何よりもまず物質が精神のなかに、精神が物質のなかに流れこむ様子を観察すること(『新訳ベルクソン全集2物質と記憶 身体と精神の関係についての試論』(アンリ・ベルクソン著、竹内信夫訳、白水社)p324から引用)

これがベルクソンの「純粋持続」その3。ベルクソンは「純粋持続」のアイディアによって、世界の意味をダイナミックに掴みました。物質にも精神にも他と関わろうとする性質を見いだし、さらにその関わりが一個の生命の深層で空間や時間を凝縮させた流れを生みだしている。これがベルクソンの「純粋持続」です!

📝他のベルクソン用語にも純粋持続な破格を読みましょう!

動物であれ、植物であれ、生命活動とはことごとく、その本質的な点において見れば、エネルギーを蓄積し、次いで柔軟で可変的な水路にそのエネルギーを放出するということに向けての努力であるように思われる。(略)それこそ、いのちの躍動が、物質世界を通過しながら、一挙に獲得しようとしたものであったと思われる。(『新訳ベルクソン全集4創造的進化』(アンリ・ベルクソン著、竹内信夫訳、白水社)p294から引用、ただし「いのちの躍動」に付された傍点を略した)

これがベルクソンの「生命の躍動(エラン・ヴィタール)」。生命進化の根源にあるもので、山川出版社の『倫理用語集』では「砲弾が爆発して、様々な破片から破片へと炸裂するよう、様々な方向に分散して、物質的な形態を後に残していく」ものと注釈されます。この生命は物質世界をその内部に刻んでいるだけでなく(例えば動物と植物の分岐など)むすうの可能性を実現する自由を本質とするものです。「純粋持続」から発して、生命の自由を強調するときに使う言葉が「生の躍動」だと言っていいでしょう!

開かれた魂の愛は動物、植物、すなわち全自然にも広がっていく以上、この魂は人類全体を包容すると言っても言い過ぎではないし、それでもまだ言い足りないくらいであろう。(略)仁愛は、地上にもはや他のいかなる生物も存在しないところでさえ、仁愛を有した者のところに存続するだろう。(『道徳と宗教の二つの源泉』(アンリ・ベルクソン著、合田正人、小野浩太郎訳、ちくま学芸文庫)p50から引用、ただし「仁愛」の「シヤリテ」のルビを略した)

これがベルクソンの「開かれた魂」。個体や閉じた集団の保存を超えて人類愛を宿す(「純粋持続」に即した)心を指します。「閉じた魂」と対をなす言葉で、(おもに宗教の歴史的進展が)「開かれた魂」に導かれて「閉じた社会」から「開いた社会」へと進化するものと説きました。引用では「人類愛」さえ上限としない天井知らずな愛のパワーが語られています!

「存在の全体がある一点に(略)ある尖点に集中し、その尖点が未来を絶えず新たに取り込みながら、その未来のなかに入り込んでゆくのをわれわれは感じる。そこに生命活動があり、そこに自由な行為があるのだ。」

画像2

『新訳ベルクソン全集4創造的進化』(アンリ・ベルクソン著、竹内信夫訳、白水社)p235から引用です。躍動する生命の持続が、事物や存在の全てを凝縮させて新しいものを開拓していくイメージをベルクソンは繰り返し語りました。彼の哲学では生物が一瞬一瞬の現在を生きることに対して、とても力強い肯定を読むことができるでしょう!

📝躍動するのは生命だけではありません!

受け取ったものを周囲に振りまく欲求を、彼らは愛の弾み(エラン)として感得する。(略)愛、それによって神秘主義者たち各人は彼個人として愛され、また、彼によって、彼のために、他の人間たちはその魂が人類愛へと開かれていくに任せる。(『道徳と宗教の二つの源泉』(アンリ・ベルクソン著、合田正人、小野浩太郎訳、ちくま学芸文庫)p136から引用、ただし「弾み」に対するルビ「エラン」をパーレンに送る改変をした)

これがベルクソンの「愛の躍動(エラン・ダムール)」。愛の中にある他人に向かう感情が、むすうの人間を結びつけ、彼らが自己を人類愛のレベルに開いていく感覚があることを説いています!

📝最後ですがベルクソンの場合人間の定義は《工作人》が単推しです!

人間知性というものの不変の特質を示している側面だけに注目するとするならば、われわれはおそらくホモ・サピエーンスという言葉ではなく、ホモ・ファベルという言葉を用いているだろう。結局のところ(略)人間知性とは、技巧的に作られた物を制作する能力、なかでも特に道具を製作するための道具を製作する能力であり、その制作技法を限りなく変化させる能力なのである。(『新訳ベルクソン全集4創造的進化』(アンリ・ベルクソン著、竹内信夫訳、白水社)p164から引用、ただし「ホモ・サピエーンス」、「ホモ・ファベル」、略以下の文に付された傍点を略した)

これがベルクソンの「ホモ・ファーベル(工作人)」。人間が道具を作って自然に働きかけ、環境を作り変えることによって進化してきたという考えを反映した人間の定義です。引用では、「道具を製作する道具」とともに、世界の可能性を自在に開いていく人間の「生の躍動」っぷりが活写されています!

あとは小ネタを!

哲学者ベルクソン『笑い』から。似た顔をみる「笑いはさらにいっそう大きくなるであろう。なにしろ、全員が互いに似た者同士、その似た者集団が皆一斉に、あっちに行ったり、こっちに来たり(略)大騒ぎなのだから」。『おそ松くん(おそ松さん)』を連想します。

↪これがベルクソンの「笑い」。機械的なこわばりからの脱出を「笑い」と規定したこの文章は、ベルクソンの魅力を最も伝える小論といえるかもしれません。単に本能的なものでもなく、また知性の所産のみとも扱いえない「笑い」を、ばねのような「生の躍動」の一側面として考察しようとしたものとまとめていいかもしれません。

1922年アインシュタインのノーベル賞受賞式(本人は滞日のため欠席)で、受賞のことばを述べた科学界の重鎮アレニウスは、相対性理論が哲学者の間で活発な議論を生んでいると紹介した。そこで相対性理論への挑戦者として名が挙げられているのがベルクソン。

↪『持続と同時性』は、ベルクソン自身が生前に絶版を決断し、死後も出版を許さなかったことで有名なもの。各人が運動によって相対的な時間の長さを生きるという「相対性理論」に対して、「純粋持続」のベルクソンは人は、「相対」ではない真なる認識(持続)が得られると反論したと理解できるでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?