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《大学入学共通テスト倫理》のためのモーリス・メルロー=ポンティ

大学入学共通テストの倫理科目のために哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。モーリス・メルロ―=ポンティ(1908~1961)。キーワード:「知覚」「身体の両義性」「生きられた身体・生きられた世界」「交叉(キアスム)」「世界の肉」主著『知覚の現象学』『眼と精神』『見えるものと見えざるもの』

モーリス・メルロ=ポンティとは、

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フランスの哲学者にして、最年少でコレージュ・ド・フランスの教授資格を授与された(当時)気鋭の哲学者です。ドイツの現象学者の祖フッサール文庫から現象学を学び、友人に実存主義者のサルトルや不条理文学のカミュがいます。重厚な哲学的著作『知覚の現象学』を書く、一方、セザンヌなどの美術作品、プルーストなどの文学への深い造詣を示し、同時代の政治も論じた哲学者です!

📝彼は「身体」のキーワードで哲学的問題の本丸を攻めていきます!

われわれが主体の核心に再発見するところの存在論的な世界と身体とは観念としての世界ないし身体ではなくて、全体的な取組みのなかに集約された世界そのものであり(略)身体そのものである。(『叢書ウニベルシタス112 知覚の現象学』(M. メルロ=ポンティ著、中島盛夫訳、法政大学出版局)p674から引用)

これがメルロ=ポンティの「身体」。私たちが身体をもってこの世界に生きていること。彼はこのあたりまえかつ厳粛な事実を再発見し、哲学の核として扱います。そして、そこから主体など哲学が探求するすべてが出るとみなします。メルロ=ポンティはフッサール文庫に詣でてフッサール現象学を学んでいますが、彼を受け継いでいるというより、フッサールが30年かけた論考で開いた問いを「知覚する身体」を代入してまるごと解けるという手ごたえに立っていた人という印象があります!

📝メルロ=ポンティの身体は繊細な「知覚する身体」です!

身体像という概念でもって新たな仕方で描かれるのは、単に身体の統一だけではない。身体の統一をとおして、諸官界の統一も対象の統一もまた然りである。(『叢書ウニベルシタス112 知覚の現象学』(M. メルロ=ポンティ著、中島盛夫訳、法政大学出版局)p384から引用)

身体の知覚は「視覚」「触覚」「聴覚」など五感の官界にまたがっています。把握するときその統一としてものを捉えると同時に、自分である身体像もその統一であるとしています。そして、たとえば「身体像」というものは物質的な身体そのものでなくなっています。すでに統覚としての「意識」の発祥があるといえるでしょう!

📝メルロ=ポンティははっきり以下のように断定します!

われわれに認識されるいっさいの意識は、そのパースペクティヴ的側面である〈身体〉を通してあらわれる(『行動の構造〈下〉』(モーリス・メルロ=ポンティ著、滝浦静雄・木田元訳、みすず書房)p156から引用)

こんな感じがメルロ=ポンティの「知覚する身体」。そりゃそうだという感じですが、例えばプラトンの「真実在」などは身体抜きに成立していそうなので、哲学を論じる上では重要な断定です。即物的かつ、単なる物質現象以上に深いレベルで意識を捉えようとするメルロ=ポンティです!

📝じしんの哲学への自負を見ておきましょう!

哲学にとって本質的なものとして、自閉した知性という定義を与えること、それはおそらく、哲学に一種の透明性と保護圏を保障することだが、それはまた、存在するものを認識するのを断念することである。(『メルロ=ポンティ・コレクション6 ヒューマニズムとテロル 共産主義の問題に関する試論』(木田元編、合田正人訳、みすず書房)p286から引用)

身体から生じる知覚や意識を扱わない哲学を閉じたものと扱い、(ゲシュタルト心理学など)科学的な現実と接している哲学の本質を見定めているフレーズです。

最後の審判はないのだ。(略)われわれは、解き難く錯綜した状態で、世界や他人と混り合っている(『意味と無意味』(モーリス・メルロー=ポンティ著、永戸多喜雄訳、国文社)p61から引用、ただし「最後の審判」の部分のみゴチで表記されていたのを再現しない)

こんな感じがメルロ=ポンティの「生きられた世界」。生きている身体を哲学の核に据えるメルロ=ポンティは、その身体が負っている歴史性も同時に含めて生きたこの世界を論じることに意欲を燃やします。大分開いた哲学だといえるでしょう!

📝この哲学が現代に最も必要と自認しています!

われわれの世紀は、「身体」と「精神」との境界線をぬぐい去り、人間の生を徹頭徹尾精神的なものでもあれば徹頭徹尾身体的でもあるものとして、つまり、終始身体に支えられながらも、そのもっとも肉体的な様相においてさえ、終始人間の相互関係に関わりをもつものとして見てゆこうとします。
(『シーニュ 2』(M. メルロー=ポンティ著、竹内芳郎監訳、みすず書房)p130から引用)

例えばこんな感じがメルロ=ポンティの「身体の両義性」に関わるもの。知覚の主体でもある身体を、同時に物質である客体でもある2つの面についての身体についての考察がメルロ=ポンティの思索の軸にあると思います。引用は現代の哲学を概説したものですが、身体を論じる自分の姿勢をがっつり反映しているでしょう!

📝メルポンの「知覚する身体」論を☑ましょう!

☈まず、「知覚する」ことの不思議さを論究していきます!

知覚そのものを、世界のなかで生ずる事実の一つとして、記述することは問題となりえない。というのも、われわれは世界という画面から、われわれ自身がそれであるところの空隙を抹殺することは決してできないからであり、知覚とはこの「大きなダイヤモンド」の「きず」だからである。(『叢書ウニベルシタス112 知覚の現象学』(M. メルロ=ポンティ著、中島盛夫訳、法政大学出版局)p340から引用)

身体は知覚するが、「知覚したという事実」は世界の中で「大きなダイヤモンドのきず」のように世界のなかでイ場所をもたない空隙であるとしています。

☈次に、この余白感自体を宿命的に扱います!

全体的存在(略)――これを思惟するためには、われわれはその外にあって、非存在という余白でなければならない。(『叢書ウニベルシタス426 見えるものと見えざるもの』(M. メルロ=ポンティ著、C・ルフォール編/中島盛夫監訳、伊藤泰雄/岩見徳夫/重野豊隆訳、法政大学出版局)p122から引用)

知覚する私たちは「私でない世界(の全体)」を思惟し、そのことで意識は世界の余白となっていきます! 余白にして全ての外に立つ存在です!

☈こうして精神が身体さえも離脱した何かになります!

それは「繋留され」「結びつけられて」いる、それは絆なしには存在しない/精神、対自は窪みであって、空虚ではない。/「思惟」が、自己とのこの親密性の外部で、われわれの内にではなくて、われわれの前で、つねに中心をはずれた姿で生きていることを、理解するのに慣れねばならない。(『叢書ウニベルシタス426 見えるものと見えざるもの』(M. メルロ=ポンティ著、C・ルフォール編/中島盛夫監訳、伊藤泰雄/岩見徳夫/重野豊隆訳、法政大学出版局)p365/p382/p384から引用)

「知覚する」という関わりによって、身体自身からも外れたもの。知覚して思考する私たちがこうした不思議な存在性をもっていることを彼は主張します!(引用は「絆なしには」「しない」「窪みであって、空虚ではない」「前で」の傍点を略しました)

📝身体知覚というキズのキズナが織りなして「世界」が生まれます!

私の身体は世界の織目のなかに取り込まれており(略)しかし(略)世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられている(『眼と精神』(M. メルロ=ポンティ著、滝浦静雄・木田元訳、みすず書房)p259から引用)

こんな感じがメルロ=ポンティの「交叉(キアスム)」。「世界」を捉えた空隙としての感覚が世界を自分的なものという感覚に反転される関係性のことと説明していいでしょう。たとえば、触れることがその感受性の中で「触れられる」経験としても感じられること。この「交叉」は対象へ没頭する集中が心まるごとを対象をいれ(我を忘れて)、その対象が身体の延長のように(我が身のごとく)感じる状況を生むといえるでしょう!

連想する「宇宙の缶詰」のことを少々、

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赤瀬川源平の梱包芸術で、内側にラベルを貼ることで宇宙そのものを内部にとじこめたと主張した、コンセプチュアル・アートの『宇宙の缶詰』。(画像は普通の缶詰ですが)メルロ=ポンティの「知覚する身体」は赤瀬川源平の缶詰に似ていると思います。メルロ=ポンティ哲学における身体も内部に実在の真空をもち、その内部と外部とは反転して「世界のすべて」と向き合う一個となるのです!

📝交叉の中で身体+知覚意識+世界は1つの『何か』になります(1番彼の調子の高い箇所です)!

継起的なものと同時的なものとの交叉する、だがはっきりと区別される秩序のもとに、一列ずつつけ加わってくる共時態のつらなりのもとに、名を持たぬ網状の組織、空間化された時間の、点としての事件(points-événements)の、星座状の組織が見出されてゆく。(略)もろもろの観念がそれぞれの領域を有するとき、それは物と言うべきでさえあるのか、想像あるいは観念と言うべきなのか? われわれの風景や宇宙の輪郭の描写は、われわれの内的独白の描写は、すべてやり直さなければならなくなる。(『シーニュ 1』(M. メルロー=ポンティ著、竹内芳郎監訳、みすず書房)p19から引用、ただし「独白」のルビ「モノログ」を略した)

これがメルロ=ポンティの「世界の肉」1。知覚する身体の空隙が事物を、諸観念を、他者をつなげていくやり方で生きるこのとき、現実の歴史意識も込みで万物は有機的な組成をもつものと現象します。この世界はダイナミックな「交叉」の関係をもつひとまとまりをもつことになります!

身体と世界との境界を、どこに置くことができるというのか。なぜなら世界は肉なのだから。/肉とは見えるものが見る身体へと巻きつき、触れられるものが触れる身体へと巻きつくこと(『叢書ウニベルシタス426 見えるものと見えざるもの』(M. メルロ=ポンティ著、C・ルフォール編/中島盛夫監訳、伊藤泰雄/岩見徳夫/重野豊隆訳、法政大学出版局)p223/p236から引用)

これがメルロ=ポンティの「世界の肉」2。知覚によって主体として世界の外側に立つと同時に、身体であるために客体として世界に巻き込まれるという「交叉」における関係性。この「風景や宇宙の輪郭の描写」を主体と対象に切り分けることなく受け入れようとするとき、メルロ=ポンティはそれを「世界の肉」と呼びました。この世界は生きた組成によってなる、支配的な超越をもたないひとまとまりのモノとして扱われています! メルポンは生ける世界内部の身体/精神を描いた哲学者です!

あとは小ネタを!

サルトル「生けるメルロ=ポンティ」からの引用を。「生まれ変わるかそれとも破れるかというときに消滅したこの長い友情は、私のうちに、無限にうずく傷となって残っている」。

↪『サルトル全集第三十巻』(白水社)p239-240から。パリ高等師範学校時代から友人で雑誌『現代』を主宰した2人の関係は、①メルロ=ポンティの雑誌への消極&サルトルの共産党の考えへの違和、②メルロ=ポンティの弟子ルフォールの文章にサルトルの批判&掲載論文をめぐる小ぜりあい、③メルロ=ポンティ『現代』去る、④メルロ=ポンティの「サルトルとウルトラボルシェヴィズム」とボーヴォワールによる反批判、で疎遠になる。サルトルは内心はどうあれ公に彼を批判をせず、彼は『知覚の現象学』から既にアンチ・サルトル的発想なのに遺稿『見えるものと見えざるもの』までサルトルの哲学(のとりわけ他者論)と向き合い続けました。

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