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《大学入学共通テスト倫理》のための山鹿素行

これが山鹿素行

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色白で小柄で丸顔なところがかわいらしい素行です。しかし、「山鹿流兵学」の創始者であり、儒者としてありえないほどの武の専門家です。

📝山鹿素行と言えば古学です!

私の考えましたことは、漢・唐・宋・明の学者の書物を見ますから合点がいかないのでしょうか、直ちに周公・孔子の書物を見まして、これを手本にしまして(略)聖人の書物ばかりを昼夜考究しまして(略)聖学の法則を見定めました。

我等存じ候は、漢・唐・宋・明の学者の書を見候故合点参らず候や、直に周公・孔子の書を見申し候て、是を手本に仕り候て(略)聖人の書迄を昼夜勘へ候て(略)聖学ののりを定め候。
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用、書き下し分の引用のルビは全て略した)

これが山鹿素行の「古学」&「周公孔子の道」。古義学の伊藤仁斎、古文辞学の荻生徂徠を加えて、江戸儒学の古学運動です。仁斎とほぼ同時に批判をしていますが、素行が先駆者と言われることが多いです。「周公」は孔子が尊敬した治政者。

📝彼は『聖教要録』で反朱子学の立場をとりました!

私は周公・孔子を先生として、漢・唐・宋・明の諸学者を先生としない。

予は周公・孔子を師として、漢・唐・宋・明の諸儒を師とせず。
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用)

山鹿素行は『聖教要録』を出版することで、師だった林羅山の教えに反し、「朱子」一辺倒の山崎闇斎を重用した保科正之の逆鱗に触れるような形で、自分の意見を表明したことになります。

📝というわけで『聖教要録』は筆禍を生み出します!

「その方は不届な書物を作ったから、浅野内匠頭の所へお預けなさると、ご老中がおおせ渡された」

其の方事不届なる書物仕り候間、浅野内匠頭所へ御預けなされ候由、御老中仰せ渡され候
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用)

これが素行の「赤穂の配流(あこうのはいる)」。思想弾圧で赤穂藩に流罪が命じられます。ちなみに、上の引用でこの申し渡しをしたのは兵学の師である北条氏長。裏事情は分からないですが、保科正之の指図と考えるのは自然でしょう。ただし、よく事実と語られる山崎闇斎の画策かは何とも言えないところです。それよりも、素行は「反朱子」だけでなく、全国に子弟をもつ兵学者が自由に言説をものしたことが危険視されたと解釈されることが多いです。これは素行が過去を振り返った『配流残筆』から。

📝配流を命じられ、素行は死を覚悟しました!

死罪をおおせつけられるのだろうか、配所へ参るのだろうか、はっきりわかっていませんでしたので、もし死罪でしたら、一通の書付けをさしだそうと思い、懐に入れておきました。

死罪仰せ付けらる可く候や、配所へ参る可く候や、分明ならず候間、若し死罪に候はゞ、一通の書付を指し出し申す可しと存じ、懐中せしめ候。
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用)

素行にとって、単に正しい意見を表明しただけで、いきなり誰かの悪意でおとしいれられたという印象しかなかったはずです。それだけに刑の軽重も予測のつかないところでしょう。「配流と本人や周囲にいつわっての死罪」の可能性を疑うことも、けっして心配しすぎではなかったと思います。これも『配流残筆』。

📝その時書き付けに遺したのは、こんな意志でした!

ただ残念なことは、今の世に生まれて現代の誤りを末代に残すことである。これが私の責任である。

唯怨ムラクハ今ノ世ニ生レテ時世ノ誤リヲ末代ニ残スコトヲ。是レ臣ガ罪也。
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用)

私のしたことに一切罪はない。ただ世の誤りを正すことができないことは無念でありそこには責任を感じる。徹底的に自己の正しさを表明しています。素行は10年もの赤穂の配流のあと、罪を許されて江戸にもどります。配流中は「忠臣蔵」の浅野内匠頭の祖父に手厚くもてなされたことが『配所残筆』に記されています。もっと後に「赤穂事件」が起きているので、赤穂で教えた素行の兵学がそれに力を与えたのだという評判が立ちました。これも『配流残筆』。

📝不屈の意志の古学を『聖教要録』から見ましょう!

素行は日常的行為の自然さを重視します!

ただ聖人は日常の実践において、知識が完全で礼儀が備わり、行き過ぎや不十分という不均衡がない。

唯日用の間、知ること至りて礼備り、過不及の差無し。
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用)

これが素行の「日用(日常の行為)」。かたよったものではなく、当たり前の実行に価値を見いだしています。

日用を離れた書物の読み方に警鐘を鳴らします!

書物を読むのに、学問をするという志で読むならば、大きな利益である。書物を読むことを学問だと思うならば、無用の物をもてあそんで自分の本心を失うやからである。

書を読むに学の志を以てすれば、則ち大益也。書を読むを以て学と為すは、則ち玩物喪志の徒也。
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用)

日用を重視する素行の「道」とはこれです!

道は、何かを行なうことなのである。日常の実践において、従い行なうことがなかったならば、道にはならない。聖人の道というのは、人の道である。

道は、行ふ所有る也。日用に、以て由り行ふ可かざれば、則ち道ならず。聖人の道なる者は、人道也。
(『日本の思想 第17巻 藤原惺窩・中江藤樹・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行・山県大弐集』(西田太一郎編集、筑摩書房』)から引用)

ここには「日用」の中での行為を「聖」なるレベルで肯定しようという意志があります。現実に行うことが大事だし、現実の行いはいつでも現実的である。それを誰もが心を込めて行うところに平和な世界が開かれていく。これが素行の「聖人の道」です。たとえば、素行が政治家である「周公」の聖性を強調するところには、おのおのの職分を全うするところに「道」があり、それを離れて「道」を思考する行為をいましめていると言えるでしょう。

📝「日用」実践から「士道」「兵学」を説いた面も!

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武士のあり方を説く「士道」。いざ事が起きたときの「兵学」。その2つを説いた山鹿素行は、「武士の日用の学」を考え抜いた思想家だと言えます。以下は「山鹿語類巻第二十一」から「士道」をチェックしていきます。(上の囲碁は「兵学」のイメージ画像です!)

📝『山鹿語類 巻第二十一』の「士道」はこうです!

およそ士の職というものは、主人を得て奉公の忠をつくし、同僚に交わって信を厚くし、独りをつつしんで義をもっぱらとするにある。

凡ソ士ノ職ト云ハ、其身ヲ顧ニ、主人ヲ得テ奉公ノ忠ヲ尽シ、朋輩ニ交テ信ヲ厚クシ、身ノ独リヲ慎デ義ヲ專トスルニアリ。
(『日本の名著、山鹿素行』(田原嗣郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系32 山鹿素行』(田原嗣郎・守本順一郎校註、岩波書店』から引用、ただしルビは全て略した)

素行の士道は、士農工商のトップにいるという倫理的自覚を持とうという教えでした。

外形としては剣術・弓術・馬術などを十分にこなすことであり、内面においては、君臣・朋友・父子・兄弟・夫婦の道をつとめること

形ニハ剣戟弓馬ノ用ヲタラシメ、内ニハ君臣朋友父子兄弟夫婦ノ道ヲツトメ
(『日本の名著、山鹿素行』(田原嗣郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系32 山鹿素行』(田原嗣郎・守本順一郎校註、岩波書店』から引用、ただしルビは全て略した)

士の仕事と内面をみがくこと。特殊な勉強や修行は必要なく、当たり前の正しい行動につとめよと説いています。

それぞれの身には、貴賤・貧富の違いがあるけれども(略)のがれられるものはない(略)それができるのは死んでしまってからである。ゆえに、この理をはっきりと知り、ただ一つのことをなし(略)あらゆる事物を処理していくというのが、君子たる者の日常の実際的生活〈工夫〉というものだ。

身ニ貴賤貧福ノ差別アリトイヘドモ(略)カクル事有ルベカラズ(略)死シテ後ニヤミヌベシ。此ノ間其ノ理ヲ詳ニキワメテ、一事ヲナシ(略)仁ヲ体トシテ万物ヲ制セン事、是君子日用ノ工夫ト云ベシ。
(『日本の名著、山鹿素行』(田原嗣郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系32 山鹿素行』(田原嗣郎・守本順一郎校註、岩波書店』から引用、ただしルビは全て略した)

📝「職分」として突きつめられた兵学が強いです!

古へより今に至るまで兵法を論述せるの士、唯唯一一偏に殺伐謀計を專とし、或は戦陣に關する事のみを瓣ぜんことを思ふ故に、反つて國患と為る。(『日本哲学思想全書15 武術・兵法論篇 教育論一般篇』(長谷川如是閑編集顧問、三枝博音・清水幾多郎編集委員、平凡社)から引用)

「昔から今に至るまで兵法を論述した者たちは、ただひたすら殺気だった計略ばかりに集中したり、あるいは戦陣に関することだけを弁じることを思うために、逆に国難を生んでいるのである。」が拙訳。兵法というと戦時のものだけと思いがちですが、素行は武士の平素の訓練や心がまえを説いて、平和の時を含めて体系化しています。軍備としての「兵学」です。これは『兵法奥義講録』から。

粮多クシテ人少ナキトキハ則チ攻メテ圍ムコト勿レ、粮少ナクシテ人多キトキハ則チ圍ンデ攻ムルコト勿レ(『山鹿素行集 第二巻』(国民精神文化研究所編、目黒書店)から引用、ただし訓点・送り仮名つきの漢文を書き下し文に改変した)

「食糧が多くて兵が少ないときはすなわち攻めて守ってはいけない、食糧が少なくて兵が多いときはすなわち守って攻めることはいけない」が拙訳。これは兵糧(ひょうろう)と戦意についての(食料が多ければ戦意が維持できるが、少ないと長引いたとききつい的な内容の)教え。戦争を「士」の「日用」と捉え、そこにとことん策を尽くしていくところに、素行の兵学の強さがあると思います。これは『武教全書』から。

後は小ネタを!

山鹿素行の主著『聖教要録』。素行はこの書物の刊行で赤穂に流罪を命じられた。熱心な朱子学信奉者で将軍補佐役の保科正之の怒りを買ったためと言われる。同年の『山鹿語類』巻第二十六にも保科正之を風刺したような文があり、火に油を注いだ可能性がある。「會津保科氏の家中に内藤源助と云ふものは(略)このもの保科弾正へも一類なり。此のゆゑに太守へも由緒なきに非ず。この源助を江戸より訴人あつて邪蘇宗門なりと云ひ來り」(『山鹿素行全集思想篇 第七巻』(岩波書店))です。執筆の意図はよく分からないのですが、保科正之の関係者に隠れキリシタンがいるのでは的なゴシップと読めます。

明治維新の精神的な支えの1人である松下村塾の吉田松陰。彼は山鹿流の兵学を学んでいた。西洋兵学を学んだのちも山鹿素行を「先師」と呼び、生涯尊敬しつづけた。そして吉田松陰が「師」と呼ぶのは西洋兵学を教えた佐久間象山です。吉田松陰や乃木希典から熱烈に愛された山鹿素行は、日本のパトリオティズム(愛国主義)を喚起する存在です。素行の『中朝事実』では「中華の始、舊紀に著すところ疑ふべきなし」(『山鹿素行全集思想篇 第十三巻』)と「日本が世界の中心(中華)だという、古い歴史書に書かれていることは疑いの余地がない」と断定します。神道家としての素行がブレークしていて、一瞬、国学の本居宣長の文章かと思う勢いの愛国です。また、闇斎と同じく、儒でつかんだ世界観を儒の本場中国に引け目なしに示す自負があります。


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