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関根全宏「感応的自然と愛と死」――ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「寡婦の春の嘆き」再読」の感想

 わずか28行の詩を論じたたった10ページの論考に、怖いくらい心を揺さぶられつづけている。この、自分にとって不可思議な実感を、自分じしんが知ろうとするために、いま短い文章をしたためたい。狭い知見の独断であるが、控えめに言って、これは英米文学の研究として最高の達成と思う。

 関根全宏「感応的自然と愛と死――ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「寡婦の春の嘆き」再読」(東京家政大学人文学部英語英文学会第27号2021)の冒頭部分(第2段階)を読もう。この文章は文学研究の命題として破格のものだ。いっしゅん、この文章は文学研究から逸脱した破調と映るかもしれない。

愛する者を喪うとき、その愛は悲しみになり果ててしまうのか。あるいは、愛が悲しみを凌駕するのか。それとも、悲しみにによって、より強固な愛が、そこからさらに生まれるようなこともあり得るのか(p22)

 まるで死別の孤独に寄り添う人生哲学のような文勢である。だがそれはウィリアムズの詩に対して至当だ。なぜなら、名作「寡婦の春の嘆き」はこう開始されるのだ。「悲しみは私自身の庭」(関根訳)。この「理解することは究極的には不可能」(p22)な悲しみが主題なのだ。

 この詩は「悲しみは私自身の庭」ではじまり「あの花々の中に倒れ込み/側にある沼の中に沈んでしまいたい気分だ。」でおわる。ここで感取されるものは何だろうか。愛するものを喪なった悲しみが一すじにこの詩を流れること。そして、この詩の主人公が「花々」を愛してきたことだ。

 関根全宏は環境思想家デイヴィッド・エイブラムを援用して、草木や自然を愛でる日常が人間の根幹をなし、同時にウィリアムズの詩学であることを強調する。だから、詩の「私の庭」も白い「花々」も、100パーセントの心象とはならない。詩語というものの美の実質に迫るコメントだ。

 重要なことは、この自然の美と「理解することは究極的には不可能」な悲しみとのリンケージだ。本論文は結論を書く前に、文学研究らしい伝記的事実をそっと挿入する。この詩は作者の母がモデルと思しきことを。核家族で連れだち庭先や近くの自然を愉しんだ過去があり得たことの推定を。

 だから本論文の結論は、牢獄のような悲しみの孤独に対し、おびただしい「他」を招き寄せる。愛する自然がいま目の前にあり、それは愛する人が愛した自然でもあり、その分かち合いを知るわが子が自分の心に向けて言葉を発していて、詩そのものが誰かや何かと玄妙な分かち合いを生む。

 関根全宏が結論する「相克」と「違和」とは、全てが取り替えのきかないはずの愛とともに揺れてある。雑な言い方だが、私は、この論文を読んで、文学を読むことの深さを、はじめて知った気持ちでいる。

ウィリアムズは、ありのままの自然を提示し、その自然との感応において、愛する者を喪うということが、愛と悲しみの〈相克〉を生きることに他ならないことを詩に昇華した。(略)そこには、喪失体験をめぐって、いつまでも解消されることのない〈違和〉を生きる人の姿が謳われている。(p30、「謳われている」の語の選択もまぶしい。)

 

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