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2023年の終りに~違和感と向き合う

この一年を振り返ると、「停滞」という言葉が浮かんでしまいました。
書くことは考えること。
私の中で何かが滞っているようなので探ってみます。

なんか…大人を長くやると、相手への気遣いを優先することに慣れてしまうことがあるんだと思います。
私の場合は子育て終盤頃からでしょうか。
子どもを守りたいとの思いから結構に自己主張をしてたのが、徐々に、
「いえ、私はこう思うんです」
とか、
「いいえ、私はこうしたいんです」
を差し控えることを覚えていったのでした。
それって、褒められることじゃない。
子どもの成長とともに、知らぬうちに気が緩んでいったのかもしれません。
年齢を重ねるうち周囲に対しての責任も重くなり、度量が追い付かなくなっていたのもあると思います。
適当に周りとつるんでいくことを選び、拠って立つものは自分だという生き方はできずにきてしまいました。
そう!「相手への気遣い」とは、その場しのぎの保身だったのです。

様々な状況に対して可能な限り自分のことは置いといて、という大人の対応で乗り切っていたことすべてが間違ってたわけではないと思います。
保身も大事だし。
ただ、その「自分のことは置いといて」がすっかり身に付いてしまい、もう癖になってるような?
私が引けば(或いは引き受ければ)取りあえず場が収まるような気になってるような??
自分のことは置いといてって、自分をないがしろにしてるつもりはなかったけれど、感情的な部分を抑えすぎて…というより受け止めてなかったかもしれません。
常に心の中に違和感を抱えています。
潜在的にあった生きていることそのものへの居心地悪さが、ずんずん活性化している気配まで感じるようになって…
…「停滞」の1年でした。
生き苦しさの一番の理由が人間社会の狂いようだと思って、そこにばかり気がいってましたから。

19、20歳の頃でした。
あるとき、唐突に頭の中でひらめいた言葉があったんです。

(何があっても心荒むことはない)

何度か反芻したと思います。
なんで突然?という思いと、しっくりとくる感覚とがあって。
そんな言葉が浮かんでくる理由は全く思い当たることがないのにストンと腑に落ちる感覚が印象に残り、忘れることはありませんでした。

あのときから何十年もの間ずっと、私は何があっても心荒むことはなかっただろうか?

一番の危機だった時期は、亡き母、そして姉と密接に向き合わざるを得ない日々だったと思います。
二人揃って我が強い性格なのが年を重ねても変わらない、というか酷くなっていたというか。
大荒れの心を抱えて苦しんでいたあの頃、私は…心荒むことはなかった、なんて言えません。
言えないけれど、心荒んでいる状態に溺れることはありませんでした。
怒ったり、泣いたり、憎んだり…があっても、それを自覚する自分がいて感情に任せて判断しないように注意を払い、必死な毎日を過ごしていたのです。
そういえば…そんな心乱れる嵐の日々の中で、私は明晰夢を見るようになり、ちょっとした体脱体験まですることがあったのでした。

あの現実逃避のひとときを、私は自分で「意図」して実現させていたのです。
さすがに、具体的にやりたいことは10分の1もできませんでしたが。
異界の体験から目覚めたときはワクワクと心が躍り、確かなエネルギーチャージとなっていたのです。

今年、明晰夢を見たのは2回だけ。
あの頃と比べれば比較にならないくらい穏やかな日々を送っているけれど、常に胸には重い感覚があります。
もちろん違和感です。
よく思い出してみると、あの頃はあんなに苦しかったけれど心の中に違和感はなかったと思うんです。
体調を崩すほど状況に苦しんでいても違和感は湧きあがってこなかった!
それは…たぶん、その苦しい感情を十分に(十分すぎるくらいに!)味わっていたからなのかも。
で、今の私はずっと感情をきちんと味わっておらず、向き合ってないことに気づけよ!と。
それが違和感の正体なのでは !?

やれやれ・・・
もうずっと、心が荒んでいくような予感がつきまとってる気もしてるし。
停滞してる場合じゃない!

現実逃避のひとときでも何でもいい、望んでいることを作り出すために「意図」することは、自分に対して違和感を抱えている限りは決してできない。

まずは今、この1年の終りに、自分に対して違和感があることを認め、感情と向き合うことを意図しました。


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