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フリーター、大学院を目指す〜完結

無事試験を終え、大学院入学が決まりました。春から修士課程です。哲学を勉強します。

『フリーター、大学院を目指す』を今まで読んでくれた方、応援してくれた方、遠くから眺めてくれていた方、たくさんのサポートを受けました。本当にありがとう。


(ここからはいつものトーンで綴るが)自分が何かをやり切ったことに対して、他人に感謝するのは人生で初めてかもしれない。俺のアクションは全て俺の問題だ、究極的には俺がやったことなんだから、他人に恩を着せる必要も正当性もない、そう考えていた。なんで感謝しているのだろう?大人になったのだろうか。令和的な「シェア」意識に毒されたのだろうか。TOKYO 2020でのアスリートのインタビューに影響されすぎているのだろうか。

感謝するのがいいことなのかも分からない。狩猟採集社会では感謝の言葉が禁じられている集団がある。恩を着せたり負い目を感じさせたりすると、ヒエラルキーが生まれるかららしい。とまれ、俺の暮らしている社会では感謝したいという気持ちを敢えて抑圧する法もない。

人生で初めて、自分から他人に頼り、助けを乞うたかもしれない。今まではみんなと同じ方向に歩いていけば、同じように救われた。どうしようもなくピンチで、しかも俺自身がそれに無自覚な時は(つまり、俺の人生のほとんど。)誰かがふと手を差し伸べてくれた。しかし今回はピンチだと自覚していたし、何も知らないと自覚していた。だから周りの人に助けを求めた。進路に悩んでいた時も、勉強方法が分からない時も、金銭的に余裕がない時も、みんな快く力を貸してくれた。助けて欲しい時に助けてもらった、だから感謝したいのかもしれない。

社会の役に立ちたい、という人の気持ちは今でも全くわからないが、ひょっとすると俺が今感じている気持ちを果てしなく拡張すると、社会に恩返ししたくなるのかもしれない。あまりに多くの助けを無条件に受け取っている意識を強く持っていると、その恩は返済せずにはいられないかもしれない。「かもしれない」が3つ続いたので不快かもしれない。

哲学は学問の中でも極めて抽象的な部類に入る、と考える人も少なくないだろうが、俺はそうは思わない。不当に抽象的な物言いに異を唱え続けるのは、哲学の仕事の一つだという気がする。「社会」という言葉は俺にとっては抽象的すぎる。だから社会に対して何か貢献するのは実質的に不可能だ。俺が恩を返しうるとすれば、あるいは余った時には恩を売ることができるとすれば、それは俺の周りの人に対してだけだろう。「周りの人」も抽象的すぎる。オマエと、アイツと、コイツ。

これを読んでいるアナタは「オマエ・アイツ・コイツ」に含まれています。だから、困ったら教えてください。力になれない確率の方が高いかもしれないけど、話を聞いてあげるくらいはできます。俺が言うのも変な話ですが、意外な人が助けになることは少なくありません。俺は感謝しているので、ためらう必要は無いです。頼りにならないのは承知していますが、ダメ元で頼ってみてください。

そして、引き続き日刊弁慶をよろしく。

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