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みなさんごめんなさい+思い出話を少々〜フリーター、大学院を目指す【試験まで19日】

この一連のnoteを読んで、俺の勉強を応援してくれている方々がいるのを知っている。欲しいテキストをプレゼントしてくれた方々さえいる。本当にありがたい限りである。が、そんな方々に心よりお詫び申し上げたい。今まで私は嘘をついていました。試験日、間違えてました。

試験日を2日間違えていた!9/16だと信じていたが、9/14だった。つまり、今まで「フリーター、大学院を目指す【試験まであとXX日】」のXX日は全て2日分長く宣言してしまっていたわけだ。今日気づいて良かった。試験当日に「え。試験、一昨日だったじゃん」と気づくのは絶望以外の何者でもない。今までの受験勉強はナニ?払った受験料はナニ?

が、試験をすっぽかすのは、実は経験済みだ。大学一年生の頃だった。必修科目のフランス語の試験を受けるために大学に行った。この科目を落とすと即留年で、そんな経済的余裕はないので、気合を入れなければいけない。とはいえ、フランス語は当初から(ナゼカ)ちょー得意だったので、そんなに心配はしていなかった。60点取れば合格とのことで、正直ヨユーだったわけだ。

ちょっと早めにキャンパスに着くと、同じクラスの友達に出会った。彼女もフランス語の試験を受けることになっている。俺は手を振って挨拶した。

「やっほー。調子どう?」
「え、どうしたの?今来たの?」

危機を前にすると人間の思考力は限界を越える。俺は一瞬で理解した。

「マジか。試験終わったってこと?」
「うん。べんけー来ないから心配してたんだよ。」
「ちょーミスった。時間まちがえた。やべえ、留年だ。」

帰り道のクラスメイトと会ったのだ。俺は束の間絶望したあと、なんだか急に嬉しくなってきた。それまでは敷かれたレールの上を、それなりに上手く走ってきた。ところが、この瞬間、俺は最悪の評価(=0点)を突きつけられたのだ。自由の片鱗を感じてしまった。セオリーを正面から無視できたような気になった。不良少年が自由になりたくて非行を働くというのが少し分かった。そのクラスメイトと一緒に電車に乗り、途中でちょっと高いスイーツを食べて帰った。

結果的には、次の学期で挽回すれば大丈夫という話になって(次の試験でも事件が起こるのだが、それはまた今度。)、何の問題もなく4年で卒業した。ともあれ、俺に試験すっぽかし体質が多少なりとも備わっているのは、ちょっと警戒しないといけない。


と、凡庸な大学生活の思い出話を嬉々として語ってしまった。嬉々として語るところまでセットで凡庸だ。ところで、俺には思い出がない。厳密にいえば、いつでも取り出して語れる思い出がない。文章や会話の文脈を与えてあげないと、思い出を語れない。思い出は、星のようにバラバラに散って光っているという風には記憶されていないのだ。また、時系列にも記憶されていない。

思い出は歴史として格納されている。出来事Aがきっかけで行動Bを始め、その結果、出来事Cが起こった。こういう風に因果的には語れる。たとえば昨日はMarvin Gayeのアルバムを聴いていた。それを一つの因果系=歴史を辿って考えてみると、中2の頃に暇すぎて本屋で村上春樹の小説を買ったところまで遡れる。(詳細はまたの機会に。)10年前のあの時に最寄駅に本屋が無かったら、昨日はMarvin Gayeを聴いていなかったかもしれない。バタフライ・エフェクトみたいな話だ。

歴史を辿るというのが、俺が思い出を思い出すためのほぼ唯一の方法だ。「試験日を勘違いしてしまった歴史」「昨日Marvin Gayeを聴くに至る歴史」、そういう歴史を描いてみることで、過去に新しい意味が付与される。過去が後から豊かになる、という経験だ。

過去の感動を再び感じる、というふうな思い出の楽しみ方はしない。だから俺は思い出を記録しないし、記録を見返したりもしない。たとえば写真は、思い出を俺の人生の歴史から引き離してしまう。それ自体が輝いてしまうからだ。「俺の思い出」としての価値が隠れてしまう。意味が消える。人生とは重層的な歴史だ。それはいくつもの分岐した意味の流れだ。その意味の流れ=風に乗るのが、最高に心地よいのだ。


哲学とフランス語を勉強しています。
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学費ピンチなのでお金ください🙏ナムナム。


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