スケジューリングとアート

ピンチ。只今、土曜日23:37。日が変わるまでにnoteを投稿しなければ、一年以上続いている日刊弁慶の連続記録が途切れてしまう。プラス、これは俺の大事な仕事なので(なんと、ちゃんとお金を払って読んでいる神購読者様がいるんですよ!みなさん!)、投稿しないわけにはいかない。

ところで、毎週投稿するのを一つのノルマにしているが、ノルマをギリギリ達成する日々である。つまり、週一のペースだ。つまり、日刊弁慶とは名ばかりで、週刊である。少なくとも、事実としては。日刊弁慶の響きが気に入っていて、週刊弁慶だとちょっと収まりが悪い。そう思って日刊弁慶として続けている。ところが、最近ついに「週刊弁慶」と言われてしまった。それも複数の人から。日刊弁慶が定着しているのは嬉しい限りだが、「週刊弁慶」と言われるほど、その内実が把握されているのも非常に嬉しい。

いやしかし。そんな心優しい読者たちに甘えて良いのだろうか。日刊弁慶ならば毎日書くべきではなかろうか。その通りである。いやしかし(pt2)、俺、忙しいんす笑。ちょっとやること多すぎて、正直なところ、手が回っていない。

そこで冷静に考えてみる。俺はどれだけ忙しいのか。まず、生活の中心にあるのは大学院だ。自分の研究はもちろん、授業で課される(有益な!)予習や課題もある。これは毎日毎日繰り返されるので、もっとも時間を費やすことになる。(こうして研究者の卵として訓練されているわけだ。ありがたや。)そして残った時間は、アルバイトで生きるための小銭を稼ぎ、絵を描き、音楽を作り、そして日刊弁慶を書く。それから、今は翻訳家としての仕事を抱えている。全部ちょー楽しいのだが、ここで必要になるのは事務だ。全部ちょー楽しく、妥協せず、長く継続するための事務。スケジューリングと、それを無理なくこなすための環境づくり。それは俺の得意とするところである。やるかやらぬかの違いだ。だから、やる。

スケジュールを作ることは、アートだ。自分の性格や身体的特徴(体力とかリズムとか)、それから諸々の外的な要因を見事にこなすためのアートだ。誰一人として同じものは作れないし、自分にとっても同じスケジュールは二度は機能しない。ある程度の型、みたいなのはあるし、それを知ることがスケジュール=アートの肝なのだけれど、型から外れることでしかスケジュールは成り立たない。(この辺の事情を存在論的に言っている哲学者がいた気がするが、思い出せない。只今23:53、ボケーっと思い出している時間はない。カントの象徴の話かも。最近先輩から聞いたきがする。)スケジュールを作れる人はアーティストだ。俺はそう信じている

人が何か作品を作っている時、「すごいじゃん、アーティストじゃん」と褒めることがある。本心で言っている。しかし当の本人は「そんなことないよ」と、ちょっと嬉しそうにはにかむ。みんなアーティストでありたいと思っているみたいだ。でも同時に、自分はアーティストではないとも思っている。いやいや、あなた、アーティストですよ。そして、俺はアーティストであるあなたを心から尊敬しています。たとえば、Todoリストを華麗に消化していく、スケジュールアーティストのあなたを。

23:57。

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