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「人生は長い」派? 「人生は短い」派?〜『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』映画レビュー

毎朝6時半に起き、ラジオ体操をし、午前中から運動・勉強などを規則正しくこなす生活が続いている。そろそろ丸3週間くらいになる。

こんな生活をしていると、「人生は長い」と信じざるをえない。もし人生は短いと信じるならば、こんな生活はできない。短い人生ならば、コツコツ積み上げるよりは一気に消費する方を選ぶだろう。しかし事実は、人生は長いということだ。

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画をみた。老体で生まれ、幼体で死すという身体に生まれた男、ベンジャミン・バトンの誕生直前から死亡直後までが描かれている。彼は「長い人生」を生き続けた人だ。老体で生まれることで、他者からは長い人生=歴史を持つ人間として見られる。幼少期の彼は若者という存在を知らず、したがって人生は長いという自明の摂理の中で成長していく。人生の長さが、自らの身体を他者の眼差しに晒すことで理解される。彼は他者の中で社会的に生きる。

歳をとると、今度は歴史を持たない者として見られる身体になる。そこで(以下ややネタバレなので、知りたくない人はそっとページを閉じてほしい。といっても、ストーリーはベンジャミンの不条理な生命が設定される段階で9割終わっているので、ネタバレを読んでも差し障りないと思う。面白いのは設定だ。カフカの『変身』と一緒。)彼は第一に旅に出ることになる。社会に所属せず、他者の眼差しを遠ざける。

そして第二に、彼が自由に放浪できないほど幼くなると、彼は記憶を喪失する。フロイトの理論では、物忘れには無意識的な意図が隠されている。長すぎた人生を直視すると、短くない残りの人生が理解されてしまう。彼は死の恐怖から、あるいはあらゆる点で不能になっていく(=老化していく)ことから目を避けるために、人生を忘れたのだろう。(これは認知症一般に言えることかもしれない。)

死ぬ直前、ナレーションが入る。「彼は全てを思い出し、そして眠りに落ちるようにこの世を去った」(ネタバレしすぎそうなので&長いストーリーを話すことになりそうなので、意訳)。人生は長かった。それを肯定せずにはいられなかったのだ。ベンジャミンが、であると同時に、ナレーターが、監督が、筆者が。

デリダによれば、エクリチュール(=書かれた言葉)は筆者を想定しなくても「意味」してしまう。筆者が「意味する」というのを超えて、エクリチュールが「意味する」。「彼は全てを思い出し、そして眠りに落ちるようにこの世を去った」。「彼」は誰でもいい。ベンジャミンでも、ナレーターでも、監督でも、神でも、俺でも(これは意訳しまくった俺の言葉だし)。さらにいえば、「ベンジャミン」という語が何を指していてもいい。結局は、そのプロット全体から、あるいは一つ一つの断片から、何かを読み取ってしまうのだから。物語の強さは、そこに何かを読み取らせてしまうことだ。何かを感じさせてしまうことだ。筆者の意図に依らず。

「彼は全てを思い出し、そして眠りに落ちるようにこの世を去った」

人生は長い。

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