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愛するもののために祈れるか ──ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』

 知らないというのはちょっと恥ずかしい。でも、積極的に求めるほど、自分が好きそうだとは思えない……。それがシェークスピアの「ロミオとジュリエット」という作品に対する、素直な感情だった。学生時代にまともに触れたのなんて、演劇部の長台詞暗記くらいで、暗記が嫌いな私はいつも全然出来なくて仲間達に呆れられていた。
 それから演じる方ではなく、観る方の演劇を好きになって、名作と呼ばれるものには呼ばれるだけのゆえんがあるのだとしみじみ感じた。

 でも悲恋、悲恋なぁ……という気持ちがあったことは否めない。

 劇場に座り、身を切られるような悲劇を楽しむ、世に言う『地獄』を味わう、というようなことは出来るようになったけれど、恋はやっぱり、叶った方がいい……。
 でも、だからといって知らないというのはいささか据わりが悪い、と思っていたところに、ミュージカルの『ロミオ&ジュリエット』を見る機会を得た。
 そう、あのにっくきコのつく病気は、思わぬものをくれたりする。
 グランドミュージカルの配信もそのひとつで、好きな役者さんもたくさん出ており、ちょうど宝塚も同じ演目をしていて、SNSでもよく目にしていた。
 というわけで、お恥ずかしながらはじめてのロミオとジュリエット、だった。(同時期にモーツァルト!も配信されていて、これについては言葉が尽きないので今回は省く。誰がみてもどう考えてもわたしの好きなところしかない)
 一流の劇場で、最高の歌、若々しい演技。ひとの才を集めた久々の演劇という現場に、ショック症状のようなものを感じながら、見終わる時、どこか目のさめるような気持ちで思った。
 そうじゃなかったんだな。
 そうじゃなかった、多分わたしは、思い違いをしていたのだ。この、「悲恋」というものについて。ロミオとジュリエットという物語について。
 そして、しみじみと、演劇でよかったなと思った。もちろん戯曲を読むことはできたのだけれど、こうして触れたのが、人間が演じる、人間のお話でよかった。

 ロミオとジュリエットの物語の、あらすじ自体は、普通に生きてて知らない人がいないほどシンプルだ。敵対する家柄の男女が出会いひかれあい、不幸なすれ違いの末に、どちらも死を選ぶ。これが結末……ではないんだな、と思った。本筋、ではあるのだけれど。
 誰もが恋をする色男であロミオ、恋というものをはじめて知る少女ジュリエット。様々な解釈とバリエーションがあるのだろうけれど、今回の黒羽麻璃央さんと伊原六花さんが特に好きだった……。あどけなく、幼く、おろかで。
 そしてその、うつくしく誠実で無邪気でおろかなふたりのそばに、ロミオの友人の、ベンヴォーリオというキャラがいる。
 子供の頃からロミオやもうひとりの友人であるロミオ、マキューシオとつるんで、けれどキャピュレットとの対立の果てに友であるマーキューシオを亡くし、親友ロミオの愛した恋人、ジュリエットの死を知り、自分が伝えなければとロミオの元に向かう。
 そして、彼が伝えたことにより、ロミオはジュリエットの傍らで死を選ぶ。
「自分が」「自分が伝えたから」私が見た回のベンヴォーリオの前田公輝さんは痛いほどつよくその絶望を表現していた。いっそコントのように、たまつき事故のように訪れる絶望の、引き金を引いたのが自分であるとはっきりと自覚して。
 悲しみの象徴、悔恨、絶望、その中で、ああ、素晴らしいな、と思ったのは。二つの死を前にして、「光」が差すのだ。その表情に。離れた二人を寄り添わせ、手をつながせるのだと動く、その瞬間に。表情に、明暗をくっきりとのせる。
 二人は、失われたのではない。
 その恋を叶えたのだ。
 悲劇の中でそう気づく瞬間が、はっきりと演技に乗っていた。抱き上げ、寄り添わせ、そして、指を組み、祈る。
 愛するもののために、祈る。
 これがそういう話だとするならば、わたしの思っていた「悲恋」とは違うのだ、と思った。悲恋だからつまらないと思うのは、絶対に違う。
 その終わりを見ながら、私も祈りたいと思った。愛していたから憎しみに駆られるのではなく、無力さに絶望するのでもなく、祈りたい。
 私達の愛した、物語、舞台と演劇というもののために。
 それは、言うほど、決して、簡単なことでは、ないけれど。

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