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取り返しのつかないこと

皿洗いの最後に、濯いだ布巾にうっすらと残っている模様をよく見てはっとした。
これ、私が小中のお昼の時間に使ってたやつだ。
小学校では給食の時間に机に敷き、中学ではお弁当を包んでいた。
その模様を鮮明に思い出せるから、突然すっかり色褪せてることに気付いた瞬間、切なさというか後悔というか、何かを逃したような焦燥感みたいなものに駆られた気がした。

クリスマスイブに生まれて、年末を迎え、新年を迎えて、毎年この時期は自分の年齢とか時間の経過についてモクモクモクモクと考えてしまう。

そういう時いつも思うことなんだけど、
わたしは「取り返しのつかないこと」に対する恐れや執着みたいなのが人一倍強いような気がする。

漂白剤で色落ちした、今はもう売っていないであろう布巾は元には戻らない。
今日お皿を洗うまで、存在すら忘れていたくせに突然惜しくなってしまった。


5年くらい前から時折襲ってくるパニック発作に悩まされて、今も1日1錠薬を服用しているわけだが、発作の好発タイミングとして「電車のドアが閉まる瞬間」が圧倒的割合を占めている。
パニック障害の人に多いケースではあるけど、私も例に漏れず【駅間隔の長い特急電車が怖い】という症状がある。
これはなんでかっていうと、「このドアが閉まっちゃったら、あと10分間自力で明けることができない。元に戻ってやっぱり開けてもらうということができない。閉まっちゃったら後戻りできない」という思考が自分をある種強迫的に追い詰めるからだ。

さらに、昔母から面白おかしく聞かされた幼少期のエピソードにこんなものがある。

家族での食事中、最後の1個のおかずを前に、母が私に「紅ちゃん、これお母さんが食べちゃってもいい?」と聞くと、私は頷くそうなのだが、母がそれを口に入れた途端、私は毎回、大声で泣き出したそうなのだ。いいって言ったのに。
以来、母は警戒して、何度も何度も本当に食べてしまっていいか私に確認し、口に入れた後も私の様子を確認しながら、しばらく噛むのを待っていたそうだ。
面倒くさすぎる…。

自分では全く覚えていないけれど、この時のメンタリティとしてもやはり
「最後の一個が食べられちゃった、もう元には戻らない」という事実に、幼いながら打ちひしがれる思いがあったのかもしれない。

たぶん、こういう思考は日常の中で全く意識していないような部分にも影響を及ぼしているんじゃないかと思っている。
私は思い切りが悪い。
後ろを振り返らないで何かを決断するということが極めて困難だ。
何かを買うときも、後悔するのが怖くて同じような商品を10も20も見比べて、グズグズグズグズ悩んでは、閉店5分前になって冷や汗をかきながら、「もう決めるしかない」という状況に押されるようにしてようやく1つを購入する、なんてことがしばしばだ。
ボールペン1本買うのに横浜じゅうの駅ビルを2時間も歩き回って、「絶対に気に入った一本」を探そうとする、そんなやつ他にいる?
まぁ、ボールペンに関しては気に入らなきゃもう一本買えばいいんだから取り返しはつくだろうけど。
なんか、選択肢の多さがかえって自分の時間を蝕んでしまっているようなことは多い気がしている。まあ、その分こだわり抜いて見つけたものはとても気に入って、大事に長く使うんだけど。

私が人生で最も恐れているのは死だ。
死は、取り返しのつかないことの最上級だし、どんな天才にも富豪にも、どうすることもできないものだ。
自分はもちろん、周りの大切な人たちのそれを想像しては、恐怖のピークで体に電流が走るような感覚を、結構毎日ペースで味わっている。

死だけは、どうすることもできない。
誰にも避けられない。蘇らせられない。

ならば、せめて生きてる間、【死】それ以外のことについては、もっと思い切って選択したり、突き進んだり、時には割り切ったりもできるようになりたい。それが私にはとても必要で、それができたら、今見えてるよりずっと広い、全然違う景色が現れるかもしれない。
そんなことを、年々思っては、思いが強くなっていく。

今年は、そう、だから、そういうことをもっと念頭に、ジャンプ台で立ちすくんで、起きてもいない事故をたくさん想定して恐怖が蓄積してしまう前に、それを振り払えるくらいのスピード感を、時には出せたらいいと思う。
ちょっとした暴露療法だね。

命以外は、取り返しのつかないことが起きたってそんなに悲観しなくていいよね。
それが起きた時に、「大丈夫、fixできるさ」と思える自信と成功体験を(この言葉あんまり好きじゃないけど)積んでくことの方が重要であることに気づける自分でいたい。


あけましておめでとう。
今年もよろしく🌷

✌️

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