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愛するということ。


ずっと雨の一日。予定がなくなったので、一日家に居ようと思ったけれど、買おうと思っていた本と、猫へのご馳走だけ買いに行く。猫、ご馳走に目をむいて喜ぶ。声高らかにご馳走の欲しさを訴える。残りをストックした場所から離れない。日に日にご飯のグレードをあげてしまう私は猫の下僕。猫にはどこまでも服従。

友人から聞いた話から、今日は愛するということと執着のことをずっと考えている。「愛」について語ろうとするとき、そわそわする。言葉で表現したら薄っぺらくなる気がする。けど、今年のはじめに読んだ、エーリッヒ・フロムの本「愛するということ」の力を借りて書いてみよう。

その友人は、ある対象に心を奪われて愛情が芽生えて、それが手元から離れてからも、自分の手元に戻したいということばかり考えているという。
「短い期間でこんな気持ちになるなんて、自分でもビックリしている。」そう。お別れをして、もう居ない現実が辛くて、戻したい、と。

話を聞いてまず私が思ったのが、「私は自分がエモーショナルになっている時に、具体的な行動はしないな。」です。
それを聞いて、友人は「それができたら楽なんだけど。」と言う。
そうだね。行動しないのも難しいよ(エモーショナルな気持ちに任せて行動できたら楽なんだけど)。あ、これじゃ分断の方向にしか話が進まない。いかんいかん。

友人の心が動いて、愛情が芽生えたことは悪いことではない。ここで考えたいのは、愛情が芽生えることと、辛さが同時に生まれていること。そうなる経緯には事情もあるんだけれど、この二つの間に挟まっているのは、「執着」の感情だと私は思う。この執着が、辛さに拍車をかけているように思えるのだ。

愛には習練が必要だと、フロムは書いている。愛する対象に出会ったとき、その初期衝動の体験と、その状態を持続させることは、まったく別の次元の問題だ。もし、愛情と辛さが同居してしまったら、このことを思い出したいと、私は心にフロムを飼っている。(ちなみに他には砂鉄さんと、荻上チキさんを飼っている。)
フロムによると、愛は人間の中にある能動的な力だそうだ。そして愛した対象にむかって、行動し、気持ちのままに愛を伝えにいくことは”能動的ではない”。それは、愛に振り回されている状態なので”受動的”で、情熱の奴隷なのだと。

執着がある状態は、おそらく受動的で愛に振り回されている状態とも言える。習練が必要な状態だ。
一方、一見受動的にみえるものの、自分自身に耳を傾け、ひたすら物思いにふける事こそ、能動的な状態だという。

頷ける。
何かいとおしい存在に不意に出会ったとき、私は昔から自分の内側に深く入り込んでしまう。体はすぐ動かない。動けない、行動が伴わない自分の感情は、大したことがないんじゃないかと思うこともあったけど、これを読んでそうじゃなかったのかもしれないと思えた。自分がエモーショナルになっている時に、何かを判断しないことともつながる。

表層に出てくるものがその人の内側のすべてというわけがない。内に込めて、いつか出てくるのを待っているものだってたくさんあるはず。

”愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。”

これを私はこう受け取る。

いとおしい存在、愛する存在に私たちは人生の中で時折出会う。それを私たちはつい身近に、手元に手繰り寄せたくて、感情のまま、動いてしまう。フロムが言うところの受動的な状態である。私たちはいったん、感情を受け止めて咀嚼する必要がある。その気持ちと向き合うことこそが、能動的な愛に対しての活動のはじまりなのだ。


愛するということ | エーリッヒ・フロム, 鈴木 晶 |本 | 通販 | Amazon

 







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