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簡単に理解しないで。

6月30日(日) 夜

一ケ月ぶりくらいに実家に帰った。父母と何か特別話すというわけではないけどだらだら過ごす。私は自分のことをあまり家族に話さないけど、ただ家族と一緒に過ごす。今日もそんな一日だった。

今日は、「相手のことはずっとわからない」を反対側から見た話。私は、相手のことがそう簡単にわからないと思っているから、自分のこともそう簡単に他者が理解できるとは思っていない。分かってたまるもんか。

ものごとが単純化されて分かりやすくされることに、どうしても抵抗感がある。例えば何かを新しく知りたい学びたいと思う時に、入口のハードルが下げられていて分かりやすくされていることは悪くないかもしれない。けど、その先もずっと分かりやすかったとして、学びの面白さは残っているんだろうか。分かりやすさの先に、「分かった気になっている」が出現しそうで私は怖い。

その、分かりやすさが好まれる世の流れの弊害なのか、こんな私でも共感されたり褒められたりすることがままある。いつも、どういう顔をしていいかわからない。
特に褒められるのがすごく苦手だ。「〇〇さん(私)は何を言っても喜ばない。」と言われたこともある。どうしたものかと少しだけ思う。

もう少し突っ込むと、「褒め」の種類にもよるのかもしれない。
たまに褒められて嬉しいと感じる時があるけれど、その場合、だいたい相手は褒めている自覚がない気がする。分かりやすい褒めではなくて、ただそう思っていることを伝えてくれているという感じ。褒めている側に自分がない。

褒めている側に「自分」が残っているのが苦手だ。そんな簡単に褒めるなよ。そう思う時、私から見える景色に、相手の「褒めている自分」がいる。あと手癖のように褒める人もいる。その手癖が見えてしまう。ひねくれているだろうか。「褒めてくれてるんだから、素直に受け取りなよ」だろうか。
けどこれ、あくまで私の体感でしかないので、分からない相手には説明しても伝わらず、「なんか深いね」とペラペラしたことを言われがち。私はけっして深い話なんてしてない。

これ、反対に、分かる人には説明不要。この隔たりのことを、わりとずっと考えている。分断はしたくない。ちなみに説明不要な相手には、何を言われても(共感されても褒められても)だいたい大丈夫でうれしい。

こんな感じなので、他者のこともあまり褒めない。というか、心が動いた時にしか褒めない。相手が何か取得したいことがあって、それに邁進しているとして、その結果、当たり前に出来るようになったことがあるとする。それは私にとって「褒め」の対象ではなくて、引き続き応援したいという寄り添いの気持ちとなって現れる。寄り添いの場合、私にできることはほとんどなくて、「何かあったらいつでも声かけて。」になる。「すごいね。」なんておこがましくて言えない。褒めずに寄り添うことで、相手への敬意を表現する。

言葉は発されるものと、されないものがあると思う。
心が動く、そのまま言葉に出てしまうこともある。他方で、言葉が表面化される過程で、「今ではない」と引っ込めることがある。たとえ「すごいなこの人」と思っても、しばらく考えて、相手にとってそれが当たり前のことかもしれないな、と思うとやすやすと口にできないと感じ、私は言葉を引っ込める。そして、何か言葉を受け取った時にも、言葉に奥行きがあるかないか、なんとなくわかる。

褒められるのも、共感されるのも苦手。簡単に理解されたくない。理由を求めてしまう。
口癖みたいに「わかる」なんて言わないで、その理由を添えてよ。

ややこしい人間だけど、これはある程度近い距離にならないと発動しない。

上半期のおわりに、こんなつよい(と思われそうな)言葉を並べて大丈夫かと思うけど、これも私。何でも書いていこう。

共感されない、できないまま、おなじところにいたい。



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