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私と写真

 私はずっと疎外感や離人症のような感覚がある。それは今まで学校生活や社会生活の中で生まれた人間や社会に対しての不信感が原因だと思う。また、その不信感が人と接する時の根底に横たわっているために今だに身体空間で新規の人間、特に生物学的同性と接する時や大勢の前で注目を浴びることが怖い。相当な精神的リソースを食う。心の準備と事後処理に数日かけることが多い。


 現実世界での交流を次第に諦め、インターネットの世界に繋がりを求めていく。

 ネット上の付き合いは文字か通話か配信かもしくは3D空間だ。音声や文字、キャラクターの動きで相手の状況を感じ、それらの情報から相手の身体空間も心の調子も類推する。それらの外見は大抵、四角いディスプレイかイヤホンを通して視覚と聴覚のみを用いて情報を伝えた。その時間があまりにも長かったので、ディスプレイ越しに見る世界は、実世界よりリアルに感じることが多い。


普段関わりのある方は漫画家を目指す女の子とそのグループ、保母の彼女、クリエイターの集まりだ。その人達は現実世界の友達より仲がいいというか、込み入った話も出来る相手である。加えて、よく身体空間でも会うので、ネットだけの付き合いでもない。

 その人たちに会いに行く、フォロワーさんの作品展を見に行くなどの、主たる目的の道すがら写真を撮ることが多く、カメラを持っているということは、その道中、そこに辿り着くまでに気を紛らわせる一種の心理的な武装でもある。カメラに集中していれば、他人に意識が行っても恐怖を感じる前に撮るという行動に変換して心を落ち着かせることが出来便利だった。


また、写真を撮るということは、そのディスプレイに目の前の光景を取り込むことでもあり、ディスプレイ越しにリアルを感じている人からすると、それによって初めてその空間を実感出来ると感じる。つまり、自分の世界に身体空間のそれを確保し、安全圏に移すことである。

 従ってこれらの写真は基本的に「現実世界が苦手な自分が反応した事物について視線の記録」である。また、昔よく使用していた写るんですやコンデジ、ガラケーやDSのカメラの色が記憶の中で基本になっているからこれが心地好いのでこれにしている。

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