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10 140文字に絞った note プロフィール

お正月は伝染病の感染を回避するため家に集まるのを自粛し、公園で揃いました。家族の大事な時間。次の世を子孫に譲る感覚をきちんと意識していたいと思います。プロフィール(身のうえ話)を読んでくださる他人様は居ないくとも、子孫は意識してエンディングノートみたいに書き残します。

書き出しを北大阪と備後の血が混じるとしたのは、アイデンティティとしてずーっと意識しているからです。大阪府の出身と言っても北と南では全然違います。他の地域の人もご存じのキタとミナミという場合は、梅田周辺と難波周辺を指し、違うと言えば違うけど繁華街の違いであって渋谷と上野の違いみたいなものじゃないでしょうか。でも北大阪と南大阪というと、もっと基本的な文明・文化の違いがありますね。私は北大阪の出身です。父方の親族が北大阪それも北河内とも呼ぶらしい、枚方の出(で)でした。

母方の親族は備後の福山と沼隈の出です。備後は広島県の東側で岡山寄りです。県の西側は安芸です。備後と安芸も文化は違いますね。

命を1つ授かったと書いたのは、血は混じっていても命は一つという物理的な意味もありますが、命を先祖や親から授かったと限定しないという感覚を表したい意図があります。自分にも連れ合いとの間に確かに子供が産まれましたけれど、それは自然からの恵みであって「この子を産もうとして産んだのではなく、産まれたらたまたまこの子だった」わけで、ここを勘違いしないほうがいいと思っています。

モノを作るのとは、まったく意味が違います。このように、私は血の混じり方と命の授かり方は次元が違うと思っています。先祖の地はひいているが、産まれたらたまたまこの私だったという認識が、地に足をつけて生きていくうえですごく大切だと思います。

さて、自分が自分の進路を決めて歩き出したと思った学生時代から最初の職場までは24年間でした。次に書きたいのですが典型的な理系志向の24年でした。わずか2年たらずでしたが船舶設計の見習いを濃厚な青春のひとコマとして経験しました。

次のほぼ24年間電気メーカーの職を授かりました。前の24年が理系だったとはいえ造船ゆえ電気は畑違い。したがってメーカー系の営業部門でした。子供向けのパソコンの販売や、当時の電気メーカーらしい系列店の計画や販売促進の様な事。社内や系列店向けの販売情報の提供などを経験しました。その企業系のデジタル放送会社にも関わりました。
 
次のほぼ12年間は仏壇屋に籍を置きました。といっても店舗でお仏売る担当するのではなく、お客様のお葬式の相談やお葬式の立ち会いを経験しました。関連して納骨堂を運営されている宗教法人の納骨堂とお葬式の事前予約にも関わりました。ご相談にあずかったお客様のお身内にいざということが起こったら病院に駆けつけ、葬儀社のスタッフさんと一緒に打合せからお通夜、お葬式から火葬場まで付き添いました。

この経験もあって徐々に宗教的感性を重視し始め、仏教の通信教育を受けたりお坊さんの話を聞くことが多くなった結果、縁があって宗派の門信徒団体役職を6年間経験することになりました。

22歳から64歳までサラリーマン生活42年とその終盤の宗派とのかかわりは、自分の当初の志向や予定が実際は大きくずれて進んだことになりました。そして偶然ほぼ12年周期で変遷したことになりました。66歳の今思うことは、12年Ⅹ6~7周期まで健康を維持し、84歳くらいでは死に切ることを覚悟したいと思います。

死に切るというのは生き抜くということばに似ていますが、微妙に違います。「切る」という言葉については次に書こうと思います。今年2021年は、noteを使わせてもらってそんなこんなの考えを整理していくつもりです。