あずにゃんペロペロしてたら毒が塗ってあって死んでしまった話

「夢でもよい。人間夢を見ずに生きていられるものでない」
徳富蘆花「謀叛論」


朝、目が覚める。いつもと変わらない一日が始まる。

水で顔を洗う。毎日面倒だが顔を洗う習慣を変えるつもりはない。

部屋に戻ろうとすると、階段の下に見覚えのあるツインテールの女の子がいた。

「誰…?」

そう呟いてもう一度よく見てみたら女の子は消えていた。

「あれ……?」

いまのは何だったんだろう。最近よく眠れない日々が続いている。疲れから何かを視てしまったのだろうか。

「まあいいや」

そう呟いて一日を始めることにした。

*

それから数日後のある夜、僕はまたツインテールの女の子を見てしまった。橋の下だ。

「ちょっと」

呼び止めるや忽ち逃げ去っていった。

「待ってくれ!」

普段なら絶対にこんなことはしないのに、この日の僕は走って追いかけた。

ハァハァハァ……

息切れしながらも後を追ったが、完全に見失ってしまった。おまけに困ったことに土地勘のない場所に出てしまっている。

「困ったな……」

ほどけた靴ひもを結び直すためにしゃがむ。その直後、目に火花が飛んだ。

「こっちから来てあげたよ」


*

気が付くと僕は木でできた床に倒れ込んでいた。立ち上がろうとするも手足に力が入らない。縛られてる!?どうやら縄で縛られているらしい。

「おはよう。久しぶり。」

椅子の上に立っている声の主に目の焦点を合わせる。視線の先にいるツインテールの女の子はあずにゃん――中野梓だった。

「お前は……」

「元気だった?私のこと忘れちゃったんじゃないかと心配してたんだよ」

まるで10年ぶりに会ったかのような声色で少女はそう言った。いや、本当に10年ぶりなのだ。けいおん!が終わってから10年経ってしまった。

「久しぶり、あずにゃ…」

「あずにゃんって言うな!!」
言い終わる前に激昂した口調で言葉を遮る。

「な…」

「10年前散々慰み物にした後、私のことほったらかして好き勝手やって、そんな奴に今更あずにゃんだなんて馴れ馴れしく呼ばれる筋合いはないの!」

「うっ」

そう。僕は忘れていた。もう10年近く前の青春を過ごしたツインテールの女の子のことを、日々の忙しさにかまけてすっかり忘れていたのだ。忘れながら過ごしていたのだ。

「ちょっと待ってくれ。確かに君の言う通り僕は君を慰み物にしていた。若気の至りって奴だ。オーケー。認めよう。僕は欲情していた。そう。それは正しい。でも君はアニメのキャラだろ。なんだって10年も経ってから僕の前に現れ、僕の現実を変えようとするんだ?アニメはアニメ。もう終わったんだ。ゼロ年代は終わったんだ。」

少女の顔が怒気を帯びたものに変わる。

「だからオタクって大っ嫌いなの!ふざけるんじゃないわよ!あれだけ私を慰み物にしておいて、俺の嫁だとか適当なことを言って、白濁液に満ちた願望を押しつけておいて、10年前の女だからもう目の前に現れるなですって!?ちょっとムシが良すぎるんじゃないの!?なんとか言いなさいよこのクソオタク!」

余りの剣幕に、そして彼女の正論に僕は言い返せなかった。梓は俺の嫁。そう、そんなことも言ってたっけ。僕はその後、何度も何度も二次元の嫁をとっかえひっかえして、そしてついにアニメを視なくなった。日常系アニメに生活はない。サバサバした現実の中で、いつしか僕は夢を見なくなっていた。

虚を突かれ、まるで痴呆のように僕は黙り込んだ。

突如、少女が立っていた椅子に腰かけ、靴下を脱ぎはじめた。玉ねぎの皮を剥くように、黒い靴下の下から白い足が現れる。靴下が打ち捨てられる様子は、まるで軟体動物のようだった。

「舐めなさい!」

手足を縛られた僕の鼻先に、少女のつま先が付きだされる。右足の親指が僕の鼻に当たる。

「ちょっと待ってくれ。なんだってそんなことをしなきゃいけないんだ。いくら何でもあんまりだろう」
「バーカ!本当に頭が悪いのねこのクソオタク!あんたが昔やりたがってたみたいにやらせてやろうって言ってるのがわからないの?いつも言ってたでしょ?あずにゃんペロペロって」

あずにゃんペロペロ、ああ、そうか。そうだった。中野梓は僕の青春だった。僕は今、自分の青春に復讐されているのか。

「ゴホッゴホッ」

息をしたら少女の足の臭いで噎せてしまった。アニメは無味無臭だ。光と音だけで完結する。現実は違う。臭いと肌触りがある。その不快感やいたたまれなさが嫌になってアニメの世界に逃げ込んだのに。

「さあ、早くやりなさい!あずにゃんペロペロって!このクソオタク!」

「舐めたら」

ふと、言葉が出てくる。

「舐めたら、赦してくれるのか?」

まるで命乞いだと、我ながら思う。

「赦すも赦さないも、今自分に選択肢があると思ってるの!?今自分にできることがあると思う?」

笑ってしまうぐらい容赦がない。でも、そうだったよな。今までの人生の中の選択も、実際には選びようがないような選択肢の中で、選択を迫られてきたんだった。あれと同じか。

「言っとくけど、舐めたら死ぬからね。毒が塗ってあるの。」

捲し立てるように続く。

「別にあなたが足を舐めたところであなたが、散々私のことを慰み物にしたあげく、私を捨てて現実に逃げたことは変らない」

そう言い終わったところで、少女は深呼吸して少し平静を取り戻し、落ち着いてこう言った。

「でもね。これは確かにアンフェアね。今のあんたは手も足も出ない状況。まともな判断なんてできない。それじゃあなたの誠意なんて試せないわ」

そう言うや、少女は椅子から立ち上がり、僕の背後に回って足の縄と手の縄をほどく。

「さあ、これで自由よ。自分でこれからどうするか決めなさい」

僕は面食らった。あれだけ一方的にまくしたててきた彼女は、しかしなぜかあっさりと自分の最大の優位を打ち捨ててしまった。男性の腕力があれば非力な女性から逃げることも、僕がその気になればいくらでも反撃することだってできる。そんなのは向こうも百の承知だろう。

「なんでって顔をしてるね。でも、私にはわかる。あなたは必ずそうする。さあ、私の足を舐めなさい。あずにゃんペロペロって、やってみなさい」

彼女は立って、素足を前に出す。

僕がどこかで自分の夢から逃げなければ、今こんなことにはなっていなかったんだろうか。いや、あの時期に、僕が逃げ込んだ先がアニメの世界だったんだっけ。逃げ込んだ先の避難所から、さらに逃げ込んでしまったのか。そうか。

整理してみる。あの時に逃げた結果、今決断を迫られている。そして今決断したら、あずにゃんペロペロしたら死ぬ。しかし、ここで逃げる訳にはいかない。逃げたことを更になかったことにしてごまかすなんて、そんな恥の上塗りのようなことは、僕にはできない。

「あずにゃん……」

ペロペロと僕はその足を舐めた。

舌が痺れ、眩暈がする。

「ああ…」

「………………………………………………………」

少女が何かを言っているが、何を言ってるのかわからない。目の前が真っ暗になり、音が聞こえなくなる。足に毒が塗ってあるって本当だったんだな。いくら夢でも何でも人が悪い。あれ、これは現実なのか。いや、もうどっちだって同じか。


少女は何事かを言いながら男の肩を揺さぶるが、男はもう動かなかった。


2000年代末。スマートフォンが登場し、東日本大震災が起こる前のほんの僅かな、退屈な日常を感じられた最後の時代。どこにも出口の見つからなかったあの日々を、twitterで日常系アニメを仲良く実況しながら過ごした当時20代前半だった若者達は、2010年代に入ってから、ある者は精神を病み、ある者は自ら死を選び、しかし大多数は社会に屈服し、若者と老人の中間に立って、かつてよりも狭くなった世界で、自分の身の丈に合う範囲で夢を見るようになった。
あの時代に死んでいった者はいずれ忘れられるのだろう。つらい思い出を忘れなければ人は生きていけない。しかし、忘れられることを恐れてはならない。生きるために、あえて死ぬ方に進まなければならないこともある。前に進むために、墓は常に後にしなければならない。かつてインターネットにしか居場所のなかった青年達の居場所は、やはり現実の中に作り出さなければならないのだから。

世の中は鏡にうつる影にあれやあるにもあらずなきにもあらず
鎌倉右大臣『金槐和歌集』

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