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公開セミナー「村上春樹と時代精神:トーク・オブ・ザ・タウンから」のメモ

10/8に早稲田大学で行われた
公開セミナー「村上春樹と時代精神:トーク・オブ・ザ・タウンから」
に参加してきました。
セミナーの趣旨は
「村上春樹はどのような評価を受けてきたのか。40年を経て書き直された「街とその不確かな壁」の意義とは。1980年代から現在まで、その時々の新聞、雑誌記事資料にみられる言説(トーク・オブ・タウン「街の話題」)をもとに村上春樹とその作品をめぐる時代相、社会心理をさぐる講演とディスカッション。」
ということで、社会学者の土井隆義先生と心理学者の河合俊雄先生の講演と、臨床心理学者の岩宮恵子先生をモデレーターとしたディスカッションという構成で開催されました。

社会学的・心理学的観点からの村上作品への言及ということで、前者は自分の関心分野であるけれども後者はまったくの門外漢。ディスカッションでは心理療法の臨床の話も当然出てきて、そこは「ほえーー(呆)」と思いつつ聞くしかなかったのですが、他は色々考える点があったセミナーでした。
「自分の研究とは直接関係ない」と言えばそうなのですが、外側から自分の研究に内容を引き付けてみたら新たな発見を得ることができて出席したかいがありました。
以下、メモと自分なりの見解です。

◆土井先生の講演より
村上作品の分水嶺として90年代前半と後半以降に分けることができる。それはデタッチメントからコミットメントの変化であるが、背景には春樹の個人的な転換に合わせるかのように日本社会の変化があった。
日本経済の高度成長(土井先生は〝山登り〟にたとえていた)が頂点に達したこと(消費者物価指数やGDPの推移等)で終りをむかえ、人々は敗戦後に一斉に前を向いて進んでいたのがバラバラになった。このバラバラになった時期が90年代半ば位に当たる。
そうなると、かつて人々の前に立ちはだかっていた「壁」的である「父」なる存在が後退し、社会、中でも若年層の保守化と「再魔術化」(スピ的なものを抵抗なく受け入れる)が進む。
また、経済格差による人間関係の分断化も避けられないこととなる。それは、親の収入による子の進路先希望に代表される、同じような学歴や収入の人々と日々関わり合う代わりに、自身とは違う(あえて使うが)階層の人々と交流することはないことであり、両者の間には「橋」が架けられていないのだ。
つまり、個々の寄る辺なき人々が社会に放り出されて不安が増大する社会(「再魔術化」はその裏返し)になるのだが、春樹はここでコミットメントへ舵を切る。しかし、実際の社会は反してデタッチメントが拡がるようになる。友人との関係に充実感を得るものの、悩みや心配も比例して増えているという相反する現象が発生しているのだ。
そして、「父」の後退した分、個々の「承認」への欲求が高まる。
そのような時代において、春樹は「ノスタルジー」として解釈されるのかも知れない。

◆河合先生の講演+ディスカッションより
村上作品には日本人特有の「こころの古層」ともいうべき要素がある。海外においても人気の高い村上作品だが、「好き」という海外の読者に「どこが好きか?」と尋ねても具体的に答えられないという。この答えられないことには「こころの古層」が関係しているのではなかろうか。これは、日本のアニメーションの受容と重なる部分があり、アニメにも「こころの古層」を感じることができるのかも知れない。
この「こころの古層」は中世で興った「能」から発生し、日本文化の「根」、つまり心のあり方の基礎が出来たことに由来する。近年は、明治以降の「近代」のメッキがはげて中世が顔をのぞかせている。(土井先生の講演と関係するが)90年代半ばで「今日より明日、明日より明後日」というアップデートをくり返さなければならなかった近代は終り、今現在は「今日」がずーーーっと平坦に続く中世的な社会化が起っている。
また、「自我が重要ではない」、「こちら側と向こう側との行き来を書く」、「心情や生活史から人物を理解できない」という点で村上作品は反近代小説的であるといえるという。
これを反転させると近代小説は「自我」を書くものであると言えるのだが、そうなると、柄谷行人の有名な「中上健次の死をもって日本の近代文学は終わった」という一言に懐疑を抱かざるを得ない。中上は「路地」のモデルとなった出自の被差別部落が消滅することが決定した頃に発表した『枯木灘』以降、小説に「自我」を書いてはいない。以上から、近代文学の終焉は中上の死ではなく、被差別部落の「死」と「路地」の誕生であると言えるのではなかろうか。

自分は聞きながらメモるのが大の苦手なので、だいぶ飛躍している部分が多いのですが、このような内容でセミナーは進みました。他にも「再魔術化」に伴う「推し活」における宗教語も話題に上ってましたね。
なお、90年代半ばというと、94年には1ドル100円を突破、大江健三郎のノーベル文学賞受賞、95年には阪神淡路大震災発生、『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ放送開始、96年にはYahoo!の日本語検索サービス開始……等々がありました。
このnoteの最後は自分の研究に引き付けてしまったけれども、この柄谷の言葉に懐疑を示さずにそのまま議論を展開する言説は改めて考える必要がやっぱり出て来たな、と改めて思いました。